第42回 才能をどう生かすか

 皆さんは勉強で忙しく知らないかもしれませんが、オリンピックを巡って色々と汚い事実が明らかになっています。日本では長野でオリンピックがありましたが、新聞やテレビで大きく取り上げられ、しきりに「感動」という言葉を耳にしたことを覚えているでしょうか。たしかに、清水選手や原田選手や一人で参加していたモンゴルの選手などには感動したけど、ひねくれ者の私は「スポ−ツをあまりに美化しすぎじゃないか」と思いました。つまり、スポ−ツが出来ても別に人間として立派であることと何の関係もないのに、妙に英雄扱いしすぎと思うのです。それが証拠に、オリンピックで優勝した選手で麻薬を使用していたのがいたし、負けたアメリカのアイスホッケ−選手たちが選手村で夜中に乱暴狼籍を働いていた。東京のある私立大学のラグビ−部員が集団でハレンチなことをしたのも最近の出来事。喫煙や飲酒や暴力事件で毎年少なくない高校が高校野球の出場停止を食らっていますが、そんなことがあったからと言って驚く人はいないでしょう。

 ともかく、スポ−ツ選手が特別の人間ではないことは常識じゃないでしょうか。オリンピックや国体選手よりも、毎日の日常生活で一生懸命に生きている人や、受験勉強に頑張りながら我ままに打ち勝つ努力をしている人の方が目立たないけどずっと立派と言えることもあるのではと思います。スポ−ツや芸術は人間のためになりますから、みなさんも多いに勤しんでほしいですが、それらはあくまで人間の一面にしか過ぎないことを忘れないでください。本当の人間の価値とは何か。それはスポ−ツでも芸術でも学問でも、はたまた外見でもありません。

 本能寺の変で有名な明智光秀は、若いときある有力な侍の娘さんと婚約しました。がこの女性は嫁ぐ前に何かの病気にかかって、顔に痘痕が出来てしまいました。そこでその父親は光秀に気の毒に思って、妹を嫁にやろうと提案しました。しかし、光秀は、「私はあの人の顔と結婚したく思ったのではない」というようなことを言って、痘痕の御姫様と結婚したのです。光秀は当時には珍しく一人の妻しかもたず家庭を大切にした。二人の間にできた子供の一人が有名なガラシア夫人です。ということは、光秀の妻は立派な賢妻だったのでしょう。光秀は表面の見える所にごまかされず、本当の人間の価値を見つけることができて、結局得をしたわけです。容姿やかっこうだけを見て結婚して、後でつまらん人間だとわかってももう遅い。見えない部分を見る目が重要。

 高校の漢文の授業で読んだ話し。あるところに偉い先生がいて、ある日弟子といっしょに山に散歩しました。すると一歩の大木に出くわした。弟子が不思議に思って「先生、なんでこの木はこんなにでかいのに、切り倒して材木にされなかったんですか」。「それはこの木が腐っているからじゃ」と先生。さらに進んで行くと一軒の家がありました。そこの主人はこの二人に食事をしていきなさいと勧めた。二人がありがたく招待を受け入れると、主人は庭で「コッコッコ」と鳴いていた鶏の中から一番元気の良いものを殺してからあげを料理した。そこで再び弟子が質問。「先生、さっきの大木は役に立たたへんさかいに生き延びた。今度の鶏は役に立つちゅうことで殺された。これはどういうわけでおますか」。「それは意味深長な教訓を含んでおる。つまり、生き物は役に立つことなんか考えずに、自然に生きとったらええんや。人間も同じ。よけいな出しゃばりせんで、おとなしく何もせずに生きるのが賢い生き方やちゅうこっちゃ」と諭したという話です。こういう思想を老荘思想(また道教)と言います。

 高校のときは「これは一理ある。他人のことに一々口出しするべきとちゃう。自分のことだけに気をつけて、いらんおせっかいなんかせん方が正しいんとちゃうか」と偉そうに考えていました。が今では意見が変わりました。だから、こうやって言いたい放題ぼやき漫才ではないが、ぼやき続けているのです。

 以前授業で「宗教阿片説」について話しましたね。これはマルクスが宗教、特にキリスト教(実はプロテスタント)について言った悪口です。「世の中は不正で一杯やさかい、正しい社会を作ろうと思たら暴力で革命を起こすしかあらへん。せやのに、キリスト教徒ちゅう奴らは、あの世のことだけ考えていっちょこの現実の社会のことには関心を払わん。むしろ、この世の不正はそれを辛抱することによって天国に行けると考えとる。宗教は、この世の苦しみを忘れるために吸う阿片みたいなもんや。だけん社会をよくするためには、まずこの地上から宗教を撲滅せんとあかへん」と何語か分からん言葉で言っていました。この考えは多くの人を納得させて、その結果共産主義の国では日本のキリシタン時代にも勝るとも劣らない残酷な迫害の嵐が吹き荒れたのです。

 しかし、このマルクスの言葉は本当でしょうか。イエス様は「この世のことには目をつぶって、あの世のことだけ考えなさい」と教えたのでしょうか。いいえ決してそうではありません。最後の審判のとき永遠の苦しみに行けと言われるのは、回りの困っていた人々に何もしなかった人たちでした(マテオ、25 、31-45)。金持ちと貧乏人のラザロのたとえ話し(ルカ、16 、20 )で金持ちが地獄に落ちたのは、お金をもっていたからではなく、困っていたラザロを無視したからでした。実際、イエス様の教えを信じた人々(キリスト信者)は、世の中の役に立つことをいろいろ考えて実行しました。例えば病院を作ること、中でもハンセン病などの不治の病の人を看病する場所を作ったり、孤児院を経営したり、・・・。現在ではマザ−テレサが有名ですけど、同じようなことをしている修道士や信者の人たちは世界に五万といます。

 以前言いましたように、人はみんな何かしらの才能を持っている。キリスト教では、この個人の才能は、財産と同じく、自分のためではなく、みんなのために使うように神様が与えてくださったと考えます。だから、スポ−ツや芸術に秀でる人は、自分の才能を自慢するためでなく、それを使って良い社会を作るために役立てないのなら、人間失格と言われても仕方がない。大多数の人の才能は目立たないものでしょう。でも、目立たないから価値がないのではない。毎日朝早く起きて弁当を作り、ご飯を用意し、家を掃除し、洗濯をして洗濯ものをきれいにアイロンをかけ、子供の話を聞く・・・こういう才能のある人たちがいなければ、世の中は殺伐としたものになるのです。


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