人生の目的シリーズ・第1回 「目的」とは何か

 先日『プロジェクトX』で30年前に起った「浅間山荘事件」の裏舞台を見ました。あの事件で大勢の人を負傷させた犯人たちは、大学でマルクスの思想にかぶれた先生たちから教えを受けて、そのような暴力革命に走ったのです。のちに裁判で死刑などの重刑になるのですが、刑が決まってからある犯人の父親が「息子のしたことは確かに悪いので裁かれて当然だが、息子たちを煽った先生たちが罰せられないのは腑に落ちない」と言っていたのは、同感です。

 以前言いましたが、思想というのは恐ろしい面をもっています。が、人は思想なしには生きていけない。だから、皆さんには常識にかなった健全な考え方を身に付けてもらいたいと思い、こうやってプリントを書いているのです。

 さて、2年前五木ひろしではなく、五木寛之という作家の『人生の目的』という本がよく売れたことがありました。人々は表面的には悩みもなく目の前のことだけに熱中して生きているように見えても、やはり心中では「なぜ」とか「何のために」とかいう問題を考えるのですね。これは人間らしいことです。動物は考えないので悩みません。だから動物のための精神病院はないわけです。

 このような「物事をまじめに考えさせる本」がよく売れるのはよいことだと思います。しかし、内容に注意する必要があることを注意しておきたい。なぜなら、人生の目的というような大切な問題に対して、誤った答えをされたら、それを読む多くの純情な青少年は道を見つける代りに、道に迷うことになるでしょうから。

 そういうと、「人生の目的について正しい答えなんかない。一人一人が自分で勝手に考えたらええこっちゃ。正しい答えとかいうもんを押しつけてもろたら困るで」と言う人が必ずいるのですが、そうでしょうか。もし、どんな答えでもよいとするなら、なぜ昨今世間を騒がせた宗教団体がみんなの非難を受けないといけないのでしょうか。その理由は、ある考えは、その人の人生だけでなく関係のない人の人生も狂わすことがあるからでしょう。だから、言論思想の自由は尊重されないといけないが、同時に言論と思想には正しいものと間違っているものがあることをはっきりさせないといけません。

 けれども、何が正しく何が間違っているのかを判別するのは確かに簡単ではない。もし簡単なら、あれほど頭の良い人たちがあれほど簡単にだまされるはずがなかったはず。ただ、世間では学校の勉強がよく出来る人を頭の良い人と言いますが、学校の成績が良い人が必ずしも社会生活の中で正しい判断ができるわけでもなく、むしろ成績はそこそこでもしっかりした常識のある人の方が頼りになることも珍しくありません。では、人生の目的とは何かを考える旅に出ましょう。

第一章;目的とは何か。

 目的とは「そのために何かするところのもと」と言えるでしょう。人間は、目的なしには何もしません。と言うと「うっそ−」と思うかもしれませんが、本当です。例え無意識にするようなことでも何かも目的がある。例えば、ぼやっと頭を掻いている場合、掻くことで痒みを和らげて良い気持ちになるということを目的としているわけです。しかし、目的ということは考えながらする行為によりはっきり現れます。例えば、今皆さんが一生懸命にしている(はずの)勉強は、受験で合格することを目的としていることは認めるでしょう。この目的がなければ、多くの人はそんなに一生懸命に勉強しないに違いない。

 ところで、目的を「終点」ということと比べてみましょう。目的を達することは、終点に到着することになります。しかし、違う点は、終点はそこに到着すればおしまいですが、目的はそれを達成してもまた別の目的が生まれる。勉強の例で言いますと、「今勉強している目的は何」と聞かれれば、「期末試験でよい点を取ること」と答えるでしょう。「期末でよい成績を取るのは何のため」と尋ねれば、「それは望高校に進学できるためや」と答えるでしょう。それでは、受験に合格し望みの高校に入学できれば、それで「めでたしめでたし」で番組が終わるのではなく、次に高校生活の中で目標が現れる。多くの人にとっては、大学や専門学校に行くことが目的になるでしょう。しかし、今度その目的を達成しても、「めでたしめでたし」ではない。つまり、生きている限り、どこまで行っても次の目的が生まれるわけです。

 ということは、これらの目的は「それ自体が目的でなく、次に続く別の目的に達するための手段」のようなものということになる。この種の目的を「近い目的」と呼びましょう。問題は、それでは目的には近い目的しかないのか、それとも「それ自体が目的のもの」があるのか、ということになる。もしあれば、これこそ人生の目的にふさわしいものでしょう。「人生の目的」というとき、それは本当の執着点で、それ以後別の目的があってはおかしいもののはずです。

 でも、そういう本当の目的、「究極の目的」は存在するのでしょうか。ギリシアの一部の哲学者とキリスト教は、「究極目的」は存在すると教えます。なぜかと言うと、究極目的がないならば、近い目的は無限にあっても、どれも無意味になるからです。「近い目的」は「次の近い目的」を達成するための手段ですが、もし近い目的しかなければ、手段だけあって本当の目的はないことになる。

 例えて言うと、さっきの勉強の例に戻りますと、今勉強することは「望みの高校に入る」と言う目的のための手段です。でも、「望みの高校に入ること」は、その後の進路のための手段です。こうやって手段ばかりつながっていて、結局目的がないなら、最初の手段(近い目的)も無意味になるでしょう。

 それでは、何が人生の究極目的なのか、それは次回に説明します。

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