人生の目的シリーズ・第4回 「本当の幸せ」を得ることはできるのか

 だいぶ日が長くなってきました。もう春がそこまで来ていますが、まだその前に越えねばならぬ試練と寒気があるでしょうから、最後までご用心を。人生の目的シリーズが続きますが、頭蓋骨にガン細胞を生じさせる可能性があるので、未成年には読ませない方がいいかも。でも、大切にしまっておいて、成人式の次の日にでもまとめて読んでくだされば幸せです。

第五章、続本当の幸せとは

 前回は、一般に人々がどのようなことを人生の目的にしているかを見て、どれも本当の幸せにはならないと言いました。「そんなら本当の幸せは何や」と聞かれるでしょう。今回はこの問題を見てみたいと思います。

 「本当の幸せ」があるならば、それはどのような特徴を持つのでしょうか。その特徴の一つは、「無限」(限りがない)ということです。前回見たように肉体を満足させる快楽は無限ではなく、一定の限度を超えると逆に嫌悪感を生じる。それで無限の満足を感じることのできる能力は、肉体にはない。それでは、魂には無限の幸せを感じることができるのでしょうか。

 「魂とは生物を活かしているもの」ですが、人間の魂であれば、それは生命の根源であるだけでなく、知り(知性)愛する(意志)という二つの能力を持っています。それでは、この無限に要求を膨らませる知性と意志を満足させるものはあるのでしょうか。それがあるとすれば、無限の存在でしかありません。すなわち神です。ですから、もし神が存在して、人間が神を知り愛することができれば、そのとき人間の能力は完全に満ち足りて、もうそれ以上を望むことはなくなる。これが人間の真の幸せであり、人生の目的であると考えられます。

 ですから、神が存在するかどうかは人生の目的があるかないかを決定する大問題なのです。つまり、もし神が存在すると考えれば、人間は死後に最終目的に到着することができる可能性があると考えられる。しかし逆に、神は存在しないと考えると、人間は決して到達できない目的を遠くに眺めながら死んでいく、という結論しか出てきません。実にこの問題は主要5教科の問題などとはまったく別の次元の、人生最大の問題なのです。だから、以前どこかで言ったように、この問題を考えさせる授業が日本の中等教育にないのは大いなる不備だと思うのです。

 「でも、そういう考えはキリスト教の考えやろ」と言う人がいるでしょう。確かにそうなのですが、実はキリスト教が生まれる300年以上も前に同じように考えた人がいた。それがギリシア人のプラトンやアリストテレスです。

 ギリシア人は人間の幸せが観照(テオリア)にあると考えました。これは物事を深く考えない人には理解が難しいことですが、ちょっと説明を試みましょう。例えば、みんなも美しい音楽を聴いたり美しい風景や絵を見たりして、うっとりしたことがあるでしょう。あるいは数学か何かの難しい問題が解けたときに、そのことによって空腹が満たされるわけでもないのに幸福感を感じるでしょう。これはその事自体(美しい物や頭脳の働きを楽しむ)を目的としているのであって、何か他のことのために美しい物をみたり問題を解いたりするのではない。回りから見るとその人は何もしていないように見えますが、実は知的な能力をふるに活用しているのです。だから、時間がたつのも忘れてしまう。これを観照と言います。けれど、この観照ができるためには、少なくても静けさや落ち着きがなければならず、現代の社会のようにうるさい音がいつも聞こえてきたり、忙しさでゆっくり考えを巡らせたりすることの難しい環境では、何かを見て、あるいは聴いて幸せを感じるということが理解できないかも知れません。皆さんには、ときどき静かな場所で落ち着いて物を考える時間をもってほしいと思います。特に大人になってから。

 キリスト教では天国の幸せとは神を顔と顔をあわせて見ることと言いますが、それは神を知り愛するという意味なのです。残念ながら、今の私たちには神を知り神を愛するとはどういうことかはわかりません。それはちょうどまださなぎの状態にある虫が、脱皮して蝶になったらどうなるか想像ができないのと似ているかも。今の私たちは神様についてはほんのちょっぴりしか知っていません。そこで、「神を見る」ということがどれほどすばらしいかはほとんど実感できないのです。でも、理論的には、これによって人間のあらゆる望みが満たされ飽かされることになるということはわかる。

 でも、ここで大きな問題が出てきます。それは、このような神を知り愛するということが人間の本当の幸せだとして、それは達成可能かということです。

第六章:この世で本当の幸せを得ることができるか。

 人間の真の幸せとは無限の存在を知り愛することにあるが、これはこの世で実現できることか、という疑問が当然沸いてきます。答えは簡単で、それは不可能です。

 これは二つの点から説明できる。まず、無限の存在は物質を持たない存在でなればならないが(なぜかと言うと、物質は絶えず変化にさらされているので、物質を持てば有限になる)、人間はこの地上で生きているうちは肉体を通してものを知るので、物質でないものは間接的にしか知ることができない。だから、この世では無限の存在を知り愛することは不十分にしかできないわけ。

 もう一つは、本当の幸せなら持つはずの特長を考えればわかります。つまり本当の幸せは、それをひとたび獲得すればそれ以上は何も望まないものであり、かつその状態が終りなく続くものでなければなりません。「今日は最高に幸せ」と言えても、明日その幸せが失われるなら、それは本当の幸せではないでしょう。そして、この世に生きている限り、もうこれ以上は望むことがなく、かつ終りのない幸せは決して得られないことはあまりにも明らかな事実。

 それでは、人間とは人生の最終目的に決して達することのできない存在なのでしょうか。もしそうなら生きる意味はあるのでしょうか。しかし、次回は「なるほど、百歩ゆずって、この世では人間の最終目的には到達できないとしましょう。でも、最終目的ではなくても、この世で到達できる最大の幸せがあるのでは」という問題を考えてみたいと思います。

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