人生の目的シリーズ・第5回 「この世での本当の幸せ」とは何か

 お元気ですか。 今の学びやを卒業するのも秒読み段階に入ってきましたね。大部分の人にとっては受験でそれどころではないかも知れませんが、私はまだまだお話しておきたいことが残っているので、少々あせり気味。その現れが今日の手紙で、フォントが小さくなり字数が多くなっているのはそのせいです。と言っても最初はこの字数で書いていたのですが、あるとき「字が多すぎます」と言われたので、今のようにしたわけです。では、「幸せ」についての最終回。

第七章:この世での最高の幸せは何か。

 人間の最終目的は神の観照であると考えたアリストテレスは、人がこの世で神を観照することは不可能だとしました。そして、人間が死後も生き続けるかどうかが分からなかったので、この世での幸せについて深く考えた。その考えの順序は前に話したのと同じです。つまり、幸せは能力を完成することだから、人間の幸せは人間らしい能力の完成にある。人間らしい能力とは知性であるから、知性に従った生き方をすることが人間の幸せだ、と結論しています。そして、知性に従った生き方ができるためには、勇気、節制、正義などの「徳」を生きることが必要であるとし、結局「徳のある人間」こそ本当に幸せな人だと言いました。

 これに対して、キリスト教は知性だけでなく意志(愛)に重きを置きます。愛の反対が憎しみですが、人を憎んでは不幸になるばかりです。近代の哲学者の中には、人間の本質は憎しみや恨み(ルサンチメント)だと言った人がいますが、これは誤りです。愛する能力は人を完成させるが、憎しみは人を破壊する。キリスト教によれば、人の道は「まず神を愛し、次に隣人を自分と同じように愛する」ことと要約されます。しかし、知らないものを愛することはできない。そしてこの世では神様はほとんど知ることができない。だからこの世では完全な幸せを得ることはできない。けれど、人間を愛することは、完全ではないけれどその人を幸せにする。ただし愛には順番がある。まず自分に近い人(両親、家族)から愛さねばなりません。この順番を無視すると、それは本当の愛ではなくなります。

第八章:この世での幸せの条件 ・幸せには体の健康や経済的な豊かさも大切であること。

 まず、最初に戻って人間が霊魂と肉体から成るという点をもう一度強調したい。人間にとって霊魂が中心だから霊魂が満たされることが人間の最高の幸せだというのは正しいのですが、この世では霊魂は肉体と非常に緊密に結ばれているので、肉体のことを無視してはいけません。人間の霊魂と肉体の関係は、あたかも自動車の運転手と自動車の関係のようなものではない。もしそうだと、運転手が疲れても自動車自体はまったく元気ということもありえる。が、人間の場合、霊魂が元気がなければ肉体にもそれは現れ、逆に肉体が疲れれば霊魂も疲れます。

 ということで、この世での幸せを考えるとき、肉体のことも考えねばなりません。つまり、体の健康や衣食住に不自由しないことなどは普通は人間の幸せと関係あるのです。でも、体の健康や経済的な豊かさは人間の幸せの必要条件ではないことも注意してください。病気で苦しんでいる中にも喜びを失わない人もいる。貧困の中でも明るく生きる人も一杯いる。こういうことは霊魂がやはり人間の中心的な部分であるという主張の正しさを証明していると言えるでしょう。しかし、そのような人々は精神的に豊かな人格者であって、普通の場合人は肉体の条件に大きく影響されるので、人々が健康で経済的にも人間的な生活ができるような社会を作る努力は必要です。

・愛されることも大切であること。

 先ほど、キリスト教ではこの世での人間の幸せも隣人を愛することにある、と言いました。この愛には実は二種類あります。一つは無私の愛とでも呼べるもので、まったく自分の都合を考えずに相手の利益のみを考える。言い換えれば、相手に同化する愛です。親が子供を愛する愛がその典型でしょう。

 もう一つは自分の利益も考える愛です。恋愛は普通こちらに属します。でも恋愛も無私の愛になることもあるようです。寅さんによると恋とは次のようなものです。「いいか、恋ってのはそんな生易しいもんじゃないんだぞ。飯食うときだって○○○するときだって、いつもその人のことで頭がいっぱいよ。なにかこう胸の中が柔らかァくなるような気持ちでさ。ちょっとした音でも、例えば千里先で針がポトンと落ちても、ア−ッとなるような、そんなやさしい気持ちになって、もう、その人のためなら何でもしてやろう。命だって惜しくない。寅ちゃん、私のために死んでくれないって言われたら、ありがとうと言ってすぐに死ねる。それが恋というものじゃないだろうか」。これは無私の愛ですよね。

 さて、それではこの二つのうちどちらがより優れた愛でしょう。と言えば、誰でも「それは無私の愛に決まっとるばい」と答えるでしょう。そのとおり。でも、それでは質問です。無私の愛で人々を愛しても相手が答えてくれない場合は、その人は幸せでしょうか。親が子供のことを思ってありとあらゆる苦労を嘗めながら、子供は親の心子知らずで、家出をして不良になったとしましょう。この親は幸せでしょうか。

 隣人を愛しそのために自分を犠牲にしたが(犠牲のない愛はにせものの愛)、その隣人からは感謝もされなければその人は不幸ではないか、と誰でも思うのではないでしょうか。やっぱり人間ですから、報いがあったほうがいいに決まっている。普通の場合、人間が幸せを感じるためには、愛するだけではなく愛されていることを知ることも必要です。

・あの世があれば少し見方が変わることについて。

 もし人生がこの世で終るものなら、この世で報いがなければ本当にむなしい。人生は残酷だと言えるでしょう。カントはだからあの世があるはずだと推理しました。次は聖書の言葉です。「自分を愛してくれる人を愛して何の報いを得られよう。罪人すら自分を愛してくれる人を愛する。・・・あなたたちは敵を愛し、善を行い、返しを待たずに貸せ。そうすれば大きな報いを受け、恩知らずや悪人にも慈しみ深くましますいと高き御方(神様)の子となることができる」(ルカ、6章、32-35)。

 キリスト教によれば、この世の報い以外にあの世の報いがあり、それこそ真実の報いである、だからたとえ報いを受けない仕方で隣人を愛しても決して損したことにならない。この世でした良いことはすべてあの世で別の形で報いられるから、よい行いは何一つ失われることはないということになる。神が存在するかどうか、あの世があるかどうかは、人生をどう生きるかを大きく決定する重要な問題であるということです。

 でも人生の問題は頭だけで解決しません。経験を積みながら考えていってください。

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