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東洋印刷所

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印刷の歴史

本木昌造  鋳造活字を用いた活版印刷術の発明はヨーロッパ近代の成立を促したが、日本においてもその導入と普及は近代化の推進に欠かすことのできない原動力であった。そこにきわめて大きな役割を果たしたのが、長崎に生まれ長崎に没した本木昌造である。

 印刷の根本は活字であると着目した本木は、嘉永元年(1848)オランダから鋳造活字を輸入した。これが我国の鋳造活字の始まりであり、嘉永四年に「流し込活字」を創案し、明治三年に「鋳造活字」の完成に至っている。これが我国の鉛活字の始まりである。

活字  その後も率先して活字の製造技術を習得していった本木は、ほどなくして長崎に新町活版所を設立する。これが我国に於ける民間印刷業の始まりであり、日本の印刷文化は長崎から開け、近代印刷発祥の地として全国に知られている。

 その後、矢継ぎ早に大阪、京都、横浜、そして東京へと進出し、本木の近代活字は長崎から日本各地へともたらされていった。本木昌造による鉛鋳造活字の製造と実用化、事業化によって、近代活版術ははじめて日本に定着していくのである。

活版印刷  活字の特質を、自由な組み換えが可能で、同じ字形を無限に生産することができることにあるとすれば、今日のデジタル・フォントも「活字」ということができる。そして、間違いなくその原点にあるのが金属鋳造活字である。鋳造活字を用いた近代印刷術によって、さまざまな印刷メディアが生み出され、それは社会を大きく変え、文化を支えてきた。活字の特質はまた近代社会の特質にみごとに重なっているように思える。

活字  一方で、もはや私たちは重たい鉛の活字を目にすることはほとんどない。それだけではなく、多くの情報が紙やインクという物質性を伴った支持体を必要としなくなっている。そのような情報環境はますます加速されるに違いない。鋳造活字、活版印刷というものが中核的な情報技術として復権することはありえないだろうが、そこには情報技術に関する多くの知見が隠されている。本木活字とその周辺からは、独自の文字体系、言語をもつわが国が経験した近代化への葛藤が見えてくる。

  •  文政七年 (1824年6月9日)長崎新大工町乙名、北島三弥太の四男として生まれる。
  •  天保六年 (1835年/12才)母方のオランダ通詞(通訳)の養嗣に迎えられ通詞となる。
  •  安政元年 (1854年/31才)米国艦隊提督ペルリ来朝通詞を努める。
  •  安政二年 (1855年/32才)活字判摺立方取扱掛を命ぜられる(官営印刷の始まり)。
  •  萬延元年 (1860年/37才)長崎製鉄所(三菱造船所の前身)御用掛となる。
  •  明治元年 (1868年/45才)浜町と築町の中島川畔に我国最初の鉄橋、くろがね橋を架設。
  •  明治三年 (1870年/47才)新町に新町活版所を設け、活字鋳造と印刷を始める。
  •  明治六年 (1873年/50才)東京に長崎新塾出張活版製造所を設立する。
  •  明治八年 (1875年9月3日)翁没す。享年52才。

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