第21回 読書について・その1 |
今読んでいる本に、「凡人の頭は13%しか使われていない、頭は使わないとぼける。・・この頃の大学生などは大学の時代からボケている。頭を使わぬからだ。それから頭はむつかしい問題と取り組むほどよくなる。安易な問題だけ扱っていたら、頭は馬鹿になる」と書いてありました(安岡正篤、『人間の生き方』、117ペ−ジ)。私もそう思います。そう思って、私も中学生には少々難しい内容の文章をがんばって書いているわけです。 閑話休題(「それはさておき」を難しく言うとこうなる)、ようやく秋らしくなって来ました。言い古されていることですが、秋は「読書の秋」とも言われますね。今日はこの「読書」について一言。日本では、高校生になると猛烈な受験勉強で読書する暇もないことが普通だそうですが、これは憂うべきことです。問題集をするより良い本を一冊読むほうがずっと本当の勉強になるからです。確かに受験を考えれば問題集をするほうが効果的でしょうが、受験勉強はいびつな形の勉強にすぎないことを忘れないでください。 以前、希少価値ということについて話したことを覚えていますか。誰でもすることをしてもあまり価値がないが、ほんの数人しかできないことができれば価値がある。しかしもちろん、そのできることというのは「良いこと」であるという条件が付きます。毒物を飲みのに入れるのは、幸いに少しの人間しかしませんが、それは卑劣な犯罪であって、そんなことができても「希少価値」のある人間でも何でもない。 ところで、現在の日本の若者が読書をしなくなった(これを活字離れと呼ぶ)ことが事実ならば、読書をよくする若者は「希少価値」がある、となるでしょう。同じように、現在ますますパソコンやワ−プロが使われ、手で字を書くことが少なくなってきていますが、それだからこそきれいな字を書ける人は希少価値が出てくる。日本人は、みんながしていることをしなければ取り残されるという気持ちが強い国民のようですが、みんながすることをマスタ−した上に、人々がしていないことで自分ができることは何かを考えておくのも大切だと思います。 さて、読書の話しに戻って、文字は人類の文明とともに生まれたものですが、自分の考えを他人に伝えるためのもっとも便利で有効な手段です。我々人間が生きている間に得られる知識や経験はほんの少しです。が本を読むことによって、他人(しかももっとすばらしい人)の知識や経験を自分のものにできます。 一昨年なくなった司馬遼太郎さんは、小学生のとき社会の授業でニュ−ヨ−クについて習ったとき、先生に「ニュ−ヨ−クって、なんでニュ−ヨ−クと言うのですか」と質問した。ところが先生は怒って「場所の名前にわけなんかあるか。馬鹿」と言った。司馬少年はしかし家に帰るとき公民館の図書館に寄って百科辞典で調べてみた。すると「ニュ−ヨ−クの名前はイギリスのヨ−クから来ている」とあった。それから彼は先生を信用せず、自分で毎日図書館に通って本を読み続け、あのようなすばらしい小説家になったそうです。 ということで、みなさんに本を読むことを薦めたい。しかし、それは「良い本」、つまり良書を読むという条件がつくことを忘れないでください。 諸君は『ドン・キホ−テ』という本を知っていますか。これはスペインが「日の没することのない帝国」と言われた時代を生きたセルバンテス(1547~1616)という人の名作です。この本は言ってみれば当時の社会を風刺した一大ギャグ小説で、たちまちベストセラ−になったのですが、権威ある作家たちからは「これは単なる滑稽本じゃ。文学的には価値のないつまらん作品じゃ」と馬鹿にされ、セルバンテスは富も名誉も手に入れることなく寂しく世を去ります。19世紀になってロシアの文豪ツルゲ−ネフが「と、と、とんでもない。『ドン・キホ−テ』は普及の名作でござる。シェ−クスピア(16世紀のイギリスの大文豪)の『ハムレット』に匹敵する作品ざんす」と評価したので、世界から認められるようになったのです。 前置きが長くなりましたが、むかしむかしスペインの田舎ラマンチャ地方にキホ−テという郷士(貧しい武士)がいました。彼は当時大流行していた騎士物語という種類の本を朝となく昼となく夜となく、寝食を忘れて読みふけっていました。ちょっと説明しますと、騎士物語というのは遍歴の騎士(水戸黄門のように天下を旅して悪い奴らを退治する正義の身方で、常に彼の邪魔をする幻術師、彼を密かに慕っている姫が脇役として登場する)のアクションとロマンを描く小説で、16世紀のスペインでは上は皇帝カルロス5世、下は後に聖人となるアビラの聖テレジアやロヨラの聖イグナチオという人たちでさえ一時この種の本にはまってしまい、後に後悔しています。 ともかく、ドン・キホ−テはこのような長期にわたるかつ集中的な読書の結果、脳味噌がパサパサになり、現実と小説の世界の区別ができなくなった。そこで、彼は自分こそこの世にはびこる悪代官や悪徳商人を退治するべき遍歴の騎士であり、彼の登場を待ち望んでいる不幸の人々のことを思って居ても立ってもいられなくなったのでした。そして、納屋にしまってあった埃だらけの甲や鎧を引っ張り出し修理して、やせ細った老馬に鞍をつけて、それにまたがって出発しようとしました。しかしその際に大切なことを思い出したのです。それは、彼が読んだ小説では遍歴の騎士は必ず従者(お付の人)がいることでした。そこで、同じ村に住んでいたサンチョ・パンサという人のよいでぶっちょの農夫に声をかけ、「わしがちょっと手柄を立てて褒美に領地をもらったら、おまえをそこの大守(知事)にしてやっけん」とだまして(悪気はなかったのですが)、一緒に旅だったのです。家の人たちや友達は、そんな馬鹿げた企てには大反対するのが目に見えていたので、二人はある朝こっそり村を出たのです。 この続きはまた次の手紙で。 |
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