第22回 読書について・その2

 この通信は、私のかつての教え子(現在は立派な社会人になっていますが)の何人かにも送っていますが、「今大人になって読んだらわかるけど、中学生には難しいんとちゃいますか」とよく言われます。それは重々承知のすけで書いているので、何度も言いますがぜひファイルにしまっておいて、10年後(8年後でもよい)に読んでください。それでは、『ドン・キホ−テ』の続き。

 朝早く人知れず出発したドン・キホ−テとサンチョ・パンサは、将来の夢などを話し合っていたが、しばらく行くと目の前に風車(今もラマンチャ地方に沢山残っている)が現れた。するとドン・キホ−テは「あそこを見なさい、サンチョ。山のごとき巨人が30匹、いやもっとじゃろうな、立ち現れたではないか。彼らと一戦におよび、みなごろしにしてくれよう。そしてな、まず得た分捕物で富貴の道を開こう」と言うので、サンチョはあわてて「あそこに見えるのは巨人でねえ。粉引き場の風車でがすよ」と反論したのですが、騎士はまったく聞く耳をもたず、「恐ろしかったら、わきへのいて、わしがきゃつらと激戦を交える間お祈りでも唱えておれ」と馬を走らせ、「やあやあ卑怯未練の鬼畜めら、逃げるなよ。なんじらに立ち向かうはたった一人の騎士じゃぞ」と大音声を張り上げながら風車に向かって突進していきました。そして槍先が羽木に触れると見えたとき、にわかに吹き起った風が恐ろしい勢いで羽木を回転させたので、槍はぶち折れるし、馬と乗手はそっくりさらわれて後方へぽんと捨てられて、さんざんな体たらくで野っぱらを転がっていった。助けに駆けつけたサンチョが、だから風車だと言ったでしょう、と言うと、ドン・キホ−テは、それは幻術師が「今また巨人を風車に変わらせて鬼畜退治のほまれをわしから奪いとったのじゃ」と言うのです。

 またあるとき一つの道を向かい合いにやってくる羊の大群に出くわしました。凄い砂煙を上げていたので、遠くからでは正体がわかりません。ドン・キホ−テは早速二つの軍勢が戦争をしていると勘違いします。その瞬間かつて読みまくった本に出る数限りない話が頭の中をかけ巡るのです。「ついてはおまえに教えておくがな、サンチョ。前から来るこの軍勢は名も高きトラボバ−ナ島のあるじアリファンファロン大皇帝に引きいられ、うしろから参るのは、ガラマタン人の王にして宿敵たる《腕まくり》のペンタポリン、こが采配をふるうのじゃ」と言って、サンチョに向かって、それぞれの軍勢にいる(と彼が想像した)名だたる騎士たちの説明を2ペ−ジ(岩波文庫の本で)にわたってしますが、そのうち砂ぼこりの群れが近づき、それが羊の群れでわると分かる。そこで、サンチョは「旦那様、おめえ様が見えると言わっしゃる人間や巨人や騎士は・・少なくともわしの目には見えねえだ。・・幻術のしわざに違いねえでがす」と答える。主人は、「何を申す。おまえは馬のいななきやラッパの鳴りわたりや、太鼓の音が聞こえんのか」、サンチョ、「わしに聞こえるのは羊の啼き声ばかりだね」。「おまえのおびえ心が、物を正直に見せたり聞かせたりせぬのじゃ。・・それほどおびえておるのなら、どこかわきの方へ寄って、わし一人にまかさっしゃい」と言って羊の群れに突っ込んで行きました。「どこにおるのか、思いあがれるアリファンフォロン。それがしと渡りあわれよ。それがしはただ一騎ぞ。望むらくは、一騎打ちにてなんじと力を比べ、汝の命を申し受けん」と叫び、槍を振り回しながら羊の群れに切り込んだわけです。びっくりしたのは羊飼いたち。羊を守るために四方から石を投げつけました。かくて我らが騎士は、あばら骨を二本、前歯や奥歯を3、4本折り、手の指を二本つぶして、地面に投げ出されたのです。

 このようにドン・キホ−テには目で見ること空想することが、すべて本で読んだことと同じ思い込んでいるので、行く先々で人とぶつかるのです。例えば宿屋に着くと、宿屋がお城、その主人が城主、その娘がお姫様というふうに。皆さんがバス亭でバスを待っていて、ちょんまげをして剣を腰に指した人が現れ、気味が悪いので逃げようとしたら「あいや方々、お逃げなさるにはおよびませぬ。害を加えられる御心配もいりませぬぞ。拙者が勤めをいたす武士道の掟は、どんな害も加えることを許しませぬ」と言われたら、どう思います。皆、この人は気違いだと思い、ある人は近寄らない方がいいと考え、ある人はこれは面白いからからかってやろうとするでしょう。ドン・キホ−テとサンチョはこのようにして人々からも気違い扱いされ(当然ですが)、様々のひどい目にあいます。彼らの冒険は苦しみの連続でしたが、あるときドン・キホ−テは従者にこう言います。「今わしたちを苦しめとるこの大あらしは、まもなく天気が定まって、万事好都合に行くしるしじゃよ。なぜと言えば、吉事にしろ凶事にしろいつまでも続くことはできず、従って悪いことがすでに久しく続いた上は良いことが近くに来ておると察せられるのじゃ」と。実際彼はいかなる苦難にも失敗にもけっして落胆せず、つねに前向きに生きるのです。

 少々引用が長すぎましたが、この話を出したのは読書がよいことだけど悪い本を沢山読むなら逆に害になることを説明するためです。「本や心の糧」と言います。つまり、食物と体の関係は、書物と心の関係に等しい、となる。ところで、食物には体のためになるものと害になるものがある。あるいはある人には良くても別の人には悪いものもある。例えば、肉や卵などのカロリ−の高い食べ物は若い人にはよくても、年配の人にはよくない。だから、誰でも食べる前に注意して食べ物を調べるでしょう。同じことが読書にも言えるわけ。「なんでもよいから本を読みなさい」と言うのは 「何でも良いから沢山食べなさい」と言うのと同じです。先日話した司馬遼太郎も、小さいときに図書館の本を読みまくったそうですが、いつもそこで働いていた人から、この本を読みなさい、次はあの本を読みなさい、と指導を受けてそれに従ってどんどん本を読んでいったのです。

 みなさんには良い本をたくさん読んで、心を豊かにしてほしいと思います。ではまた。


第21回に戻る   第23回に進む
目次に戻る