第23回 理性と感情

 今はク−ラ−も暖房もいらない一年中でもっとも過ごしやすく、だから電気代が最も安くつく時期ですね。一年中こんな気候だったいいのにと思いますが、でも春夏秋冬の違いがあるものよいことです。日本の美しさの一つは、四季の移り変わりが鮮やかなことにあり、また日本人もそれを昔から楽しんできたようです。俳句には季語というものを必ず付けますし、手紙の冒頭には時候のあいさつをするのは日本だけにある美しい習慣だと思います。また、ご存知『枕草子』には、清少納言がその第一段に「春って曙ね。・・・夏は夜よね。・・秋は夕暮れね。・・ 冬は早朝よ・・」とか書いているでしょう。皆さんも受験勉強で大変でしょうが、今から秋と冬を楽しみながら挑戦してください。

 先日、感情が豊かなことはよいことだなんて言いました。覚えていますか。ここで一つ付け加え。それは、人間が人間らしいのは霊魂をもっていることだということを忘れないでほしいということです。この霊魂は知性と意志という能力を備えています。人間では、感情は知性と意志によってある程度コントロ−ルされることが人間らしいと言えるでしょう。つまり、たとえ感情が豊かなことがよいと言っても、感情だけに流されて生きるのは本当の人間らしい生き方ではない。例えば、「むかつく」とか「しびれる」とか「切れる」とかいう言葉しか発しない人は、人間というより動物的な人と言えるでしょう。感情が善いのは、知性と意志の働きを失うことがない限り、です。

 キリスト教の考えでは、人間は霊魂と体からできているが、以前に話したように(第10回)、原罪の結果体は霊魂に従わなくなった、つまり感情と理性はしばしば喧嘩する兄弟みたいになってしまったのです。この二つの関係は複雑で、ヨ−ロッパの近代には正反対の考えがでました。

 ヨ−ロッパの中世では欧州の全住民は一応カトリック信者でした(当然不真面目な人も一杯いた。そは今も同じ)。しかし、1517年ルタ−が宗教改革を始めるとあっという間にたくさんの宗派が生まれ、それらの宗派の間で戦争も起こり西欧世界は大混乱に陥った、ことはご存じの通り。この混乱は単に戦争による西欧の分裂だけでなく思想の分裂も指しています。例えばこの混乱の舞台の一つであったイギリス(清教徒革命:1642年:名誉革命1688年)で、「どの宗教がええかとか悪いとかはどうせわからへんのやから、宗教について考えても無駄や。本当の近代人は宗教より理性に従うべきや。ただ、無知な民衆は宗教に満足しとるから、今は放っておいたらええ。せやけど、民衆に正しい教育を与えたら、そのうち宗教を捨ててわしらと同じ理性に従う人間になるやろ」という考えが生まれました。これを啓蒙思想と言う。おなじみのロックなんかもその一人。

 啓蒙思想は、この後18世紀になるとフランスに広がりそこで大流行しました。フランスではカトリック教会が勢力を持っていたので、啓蒙思想家は教会を激しく攻撃しました。「教会こそ民衆に迷信を教え込み、人類の進歩を妨げているざんす」と。また、「人間の理性は絶対の基準ざんす。だから理性によって理解できないことは間違いと考えないといけません」として、キリスト教のいろいろな教えを攻撃したわけ。

 ここでちょっと言っておきますが、中世ヨ−ロッパのキリスト教の哲学者たちも理性を大切にしていました。その代表であるトマス・アクイナス(1225~1274)は、人間の理性と信仰は矛盾しないとはっきり言っています。ただ、彼らは人間の理性に限界があることを認め、理性には理解できない信仰の真理があることを主張します。それに対して、啓蒙主義者は理性に限界を認めないわけです。だから、理性で理解できないという理由で奇跡や啓示を認めなくなりました。
 さて、フランス革命(1789年に始まる)は啓蒙思想家たちによって遂行されたので、革命政府はひどく教会を迫害し、多くの司祭、修道士、信者を殺しました。無数の教会堂と宗教関係の美術作品を壊し、キリスト教の暦や祝日を廃止。彼らは教会でミサに参加するとか、ロザリオを祈るとか、聖体行列をするとかの信心の行為などは、まったくの無知蒙昧な迷信と考えたのです。「この迷信にとって変わるべきは理性ざんす」と熱狂して叫びました。有名なパリのノ−トルダム(フランス語で我々の婦人、つまりマリア様のこと)教会で、「理性神の崇拝」という儀式が行われさえしました。

 18世紀は啓蒙主義とフランス革命の世紀で「理性の世紀」と呼ばれます。が、100年も「理性、理性」と言われるとうんざりするのが人情ですよね。18世紀の末にまずドイツで「人間は理性だけやないす。感情の方が大切ぞ」(どこの言葉かわからないが)と言う人が出てきました。これがロマン主義運動です。この運動はドイツから全ヨ−ロッパに広がりました。人間の心の中にあるものを表わすのが芸術です。だから、この運動は単に思想界だけでなく、音楽(例えばベ−ト−ベン)、文学(例えばゲ−テ)や美術(例えばドラクロア)の作品にも見られます。

 このロマン主義者たちの気持ちはわかるでしょう。例えば、「あっしはするめが好きでね」と言ったとする。すると啓蒙主義者は不満な顔をして、「あんさんがなぜするめが好きなのか、理性的に説明しんさい」と言うわけです。そんなことを言われたら、「てやんで、好きか嫌いかは理屈と違うよ。何でも理性とか理屈で割り切ろうとしたら息が詰まってしまうさ」と反論したくなるのが人情でしょう。でも、今度はロマン主義も行き過ぎて、19世紀の中ごろになると今度は「感情、感情と言うても人間の普段の生活はそんなにロマンテックなものと違いまんがな。もっと自然な姿を強調せんとあきまへん」という自然主義なんて運動などが生まれてきます。しかしこの自然主義は人間や社会の暗い面ばかり描くので、またすたれていきます。

 ともかく、理性と感情の問題は難しい。前は理性が感情をコントロ−ルする必要があると言いましたが、逆に感情を利用することも大切です。「好きこそものの上手なり」と言うでしょう。同じ勉強するにしても、いやいや勉強するのではなく、おもしろいと思ってするほうがずっと効果がある。それぞれの科目には独自の目的と面白さがあるから、各教科の面白い点を探してみればいかがでしょうか。

 「意志は大切な精神能力である」(『道』、19)。意志を鍛えるには「したいからする。したくないからしない」ではいつまでたっても意志薄弱です。意志は自分の好き嫌いに抵抗して、「するべきことをする」ことによって鍛えられます。その意味で、勉強は意志を鍛える非常によい機会でかも。では台風に気をつけて下さい。


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