片淵キャンパスの思い出 


PARTT「憧れの片淵キャンバス」


憧れの場所

片淵キャンパスは、幼稚園への通園路であり、年に一度の運動会の場所であった。園児には広すぎるグランドを駈けまわったこと、運動会の最後の締め(万歳三唱)を務めたこと等は、今でも忘れない懐かしい思い出である。

小学校時代は、「買い食い」の場所であった。バス通学をしていた私は、待ち時間を利用して友人H農氏(高校ブラスバンド部同期)とキャンパスに忍び込み、ジュースをよく飲んだものである。あたりを見渡すと、精悍な顔つきのおじさん達(?)が青春を謳歌している姿があった。

当時母親に、「経済学部にはどうすれば入れるとね」と尋ねたことがある。返ってきた言葉は「誰もかれも入れんとばい」の厳しい一言。一方、父親はニヤニヤしながら「勉強すれば入るさ」と励まし(?)の言葉。

中学生の頃には、担任のK田先生(家庭科)やいろんな人からの情報により、長大経済学部入学の困難さを知ることとなった。進路相談の際、地元志向の私に対するアドバイスは、「将来教員になりなさい」であった。人の意見を素直に受け入れる(?)性格の私は、この一言に頼ることとなった。

高校1年の担任もそうだし、3年の進路相談でも「教師」を薦められた。私は、当時テレビで流行っていた「熱中先生」の姿を夢見ながら勉強(?)し、全国で初めて実施された共通一次試験(昭和54年1月実施)を受験したのである。こうして、片淵キャンパスは、私の手の届かない幼少からの良き思い出の場所として終わるはずだったのだ。


実力不足!

共通一次試験の結果は惨敗だった。第一志望校を諦め、二次試験の配点が高い鹿児島大学を受験したが、それでも夢は叶わなかった。明らかに実力不足である。

自暴自棄になりかけた私を救って下さったのは、担任のK井先生(国語)であった。先生のアドバイスもあり、「浪人」することを決意した。しかしながら、先に入学した同級生の後輩になることはいかにも癪である。こうした私の天の邪鬼と負けず嫌いの性格によって、翌年は経済学部を第一志望に第2回目の共通一次試験を受験したのである。


大学生活

学部(英語、数U)の自己採点結果は惨敗であったが、一次試験の点数が影響したのか、辛うじて合格することができた。幸か不幸か、「幼い頃からの思い出の場所」に入学したのである。

大学生時代は、浪人というプレッシャーから開放され、私の頭の中から「勉学」という文字は消滅、クラブ活動と趣味、そしてアルバイトに精を出す毎日であった。特に本学のクラブに所属していたこともあり、片淵キャンパスに足を運ぶことは稀であった。学部の生協で食事したり、図書館に足を運んだ記憶はほとんど無い。あれほど「思い出ある場所なのに」である。

このような生活を続けていると教養課程・学部の単位が不足することは言うまでもなく、3年生でも経済学部に移籍することができなかった。もちろん、ゼミも所属できない有り様である。一度は留年を覚悟したのだが、幸いにも、私のような学生に対する救済措置(別に八単位を取得)が制度化されていたため、それを利用することとした。

その後、4年生の1年間で10科目40単位を取得するという猛チャージを見せ、なんとか卒業できた。この事件は、I井氏(経済学部)が卒論を3日で書き上げたという事件とともに「Swing Boat 七不思議」になっている。
このように、大学4年間は、まさに、「歴史と伝統ある経済学部の看板に泥を塗る」体たらくである。


●先輩方の一言

さて、私は地元長崎の会社に就職する(最初の会社は2年半で退社する)のだが、長崎は学校の先輩方が多く、 官公庁、一般企業で重要なポストに就いている。

当時、地元の若手経営者で組織する某団体の事務局を担当していた関係で、多くの先輩方に出会うことができた。どなたも優しい先輩方だが、お付き合いが長くなるにつれ、時には「私達のお世話も良いけれど、時間をつくって自分のために勉強したほうが良い」などアドバイスを受けることが多くなった。

なにか資格を取得しようかと思いながらも残業や飲み会が多かったことを「できない理由」に、相変わらず平凡な日々を過ごす毎日であった。


●大学院開設

さて、前置きが長くなったが、学部を卒業して約10年経過した頃、経済学部に大学院が設置されることを知った。大学院の募集要項をみると定員は15人で、募集対象は、一般学生、社会人、留学生である。昼夜開講制を採用し、「社会人のリフレッシュ教育に注力する」とのうたい文句である。

その大学院が設置(平成7年4月)される2ヶ月前くらいに、経済学部の学部長はじめ、募集担当教授が会社に訪れ、社員を1名派遣して欲しいとの依頼があった。ちなみに、私の会社で長大経済卒業生は後輩のT嶋氏と私の2名である。(平成13年4月に1名入社するが)

派遣と言っても、会社の終業時間(17時30分)までは仕事をしなければならない。また、学費の自己負担が伴う。
それはさて置き、 「大学時代にあれだけ遊んでいたのに今更勉強なんて」と言う考えが強く、
結局、その年は断念した。


一念発起

その2ヶ月後の平成7年4月、人事異動により管理部門に異動した。その部署は、ある程度定時で帰宅することが可能なので、先輩方のアドバイスを思い出し、「経済学部の夜間講座を受講したり、某国家試験にチャレンジなどした。(その国家試験は残念ながら不合格だった:後に合格する)

こうした中、翌年1月頃、再び学部長が会社に訪れて、上司に派遣の話をしている。
学部在籍中全く勉強していない私が、ましてや大学院の授業を理解できるはずがないし、仕事と家庭と勉学を両立させる自信もない。

しかし、 「今の時代、自分に投資すべきではないか」と考え、妻の了解を得て入学を決意した。
(偶然、同じ会社に勤務する後輩も同じことを考えていた)