”対話”の大切さ

  冠婚葬祭の時に渡す「お金」について、いつも考える。
 例えば結婚式に呼ばれた場合、どんなに財政難であろうとも、お祝い金は「1万円」ではなくせめて「3万円」は出さないといけないと思うし、親戚のおじさんからもらう場合は、たとえ毎日の食費を減らして工面した「5万円」であったとしても、その事情を知らなければ「え〜?10万円ではないの?」と”マイナスの印象”を与えることだってあり得る。

 この”お金の感覚”は”感謝の気持ち”にも通じるところがある。

 これまで話したこともない人に「絶対病気を治してください。応援しています。」と言われると無性に嬉しくなるのに、僕の身の回りを世話してくれる”最も大切なパートナー”が「疲れていること」を理由にマッサージをしてくれないと「君は僕のことが大事ではないのか?」と文句ばかり言ってしまう。

 そして、今日、とある座談会で”死を宣告されたことのある方”にパートナーの愚痴をこぼしていると、こんなことを言われてしまった。
「君は奥さんに感謝の気持ちがない。図々しいなあ。君はハンディキャップを持ってしまった夫に愛想を尽かして別れてしまった夫婦を知らないのか?君の奥さんは何年も君の世話をしてくれている んだろ。だったら、君がどんなにきつい状態であっても、まずは”ありがとう”から始めるべきではないか?」

 そういえば、僕のパートナーは、いつも、子どもの世話をしながら「僕の世話をする時間」を工面してくれていた。
 それなのに今の僕はパートナーに対し感謝の気持ちが全くなかった。
 しかも、今朝、パートナーにこんな事を言ってしまったのだ。
「君は
、僕が職場において、トイレに行くときズボンを履くだけで何度深呼吸をしなければならないのか知っているいるのか?職場で書類をめくるときは立たないとめくれないことを知っているのか?文字や数字を1つ書くのに何秒もかかることを知っているのか?電話の受話器を押すときに腕が 震えておしまちがいをしてしまい何度もかけ直していることを知っているのか?資料をファイルから出すときやホッチキスで止めるときは他の人に御願いしなければならないことを知っているのか?それでも、僕は、がんばって仕事に行っている。そうやってがんばって”生きよう”というパートナーに対し、”夜はきつくてマッサージのために起きることができない”と言えるあなたの感覚がどうしても理解できない。・・・」

 闘病は確かにたいへんである。

 でも、だからといって、大切なパートナーに対し「”感謝の気持ち”を持たなくて良い」という理屈が成り立つわけがない。

 僕は、どこかで”道”を見失っていた。

 その夜、家に帰ってパートナーの顔を見たとき、思わず涙が出てきた。
 そして「今朝はごめん。本当にごめん。きつくて・・・、恐くて・・・、寂しかったんだ。でも、ほんと、いままでありがとね。」と言った。

 自分の中にある”問題の核心”は、最終的には自分自身で解決しないといけない。
 でも、そのヒントは「いろんな人と対話をする」中に隠れているのかもしてない。

 僕は、症状次第では、また道を見失うことがあるかもしれない。
 でも、今回のように「パートナーへの感謝の気持ち」を忘れることなく、”対話”を通じて乗り越え、最後には「奇跡の完治」という勝利を掴み、その大切なパートナーに”おいしいスタミナ料理”を作ってあげたい。

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