日本ALS協会を発足した人(川口氏)のことを書いているHPを見つけた。
・・・川口さんは、毎日が、ただ漠然と過ぎる空白の期間だった。花は散り、草木もみな芽を出したにもかかわらず、彼は生まれかわることもなく、身体は枯れしぼんでいった。何のために生きているのか?わからない。だれか教えてほしい。読書で知識を教養を得ようとするが、少しも答えは得られない。少しも穏やかになれない。趣味に没頭して生き甲斐を見つけようとするが思うようにいかない。両手両足の自由が奪われた川口さんは、“もし自分で死ぬことができれば死にたい・・”「自殺」を、ふたたび自由の奪われた身体に、はがゆくも無情の無智を覚えていたのです。
川口さんの心中には、これからどのように余生を生きていったらよいのか、何のために生きているのか・・・その答えを彼は、ただひたすらに求め続けるのでした。そして、ある日、素晴らしき出逢いが、彼自身を真実の神様“イエス・キリスト”を受け入れる信仰心に・・・。そして、日本ALS協会誕生へのプロローグへと導かれてゆくのです。
悶々とした月日が過ぎていったある日のこと、テレビでマザー・テレサが来日された放送を観る。・・・マザー・テレサは、このように言っています。
「あなたがたはなぜ、すぐ側で孤独に苦しみ、愛に飢えている人を救おうとしないのですか。人間にとって本当の貧しさは、社会に見捨てられ、自分は誰からも必要とされないと感じることです。心が寂しい人は、あなたの家庭の中にいるかもしれません。貧しい人を見つけて下さい。見つけることは知ることであり、知ることは愛することです。そして貧しい人のために何かをすることが、神を愛することなのです。でもその愛は、余っている富の中から、分かち与えるものではありません。自分のために買いたい、使いたいものの中から、辛抱して差し出すような、あなた自身が痛みを感じる愛であってほしい。一人ひとりが恵みではなく、貧しい人々の痛みを感じ、痛みを分かち合う愛の実践に立ち上がってほしい・・・」
・・・彼がALSに罹患してからというもの、いろいろな宗教から勧誘があった・・・同情を装い、なかば強制的に、あるいは脅迫めいて、人の弱みにつけこんでくる新興宗教団体。そこには人の痛みを理解し、精神的な糧を与えて、立ち直らせようとする思いやりや愛が少しも感じられない。教養も分からず、自分が入信によって救われたと思いこみ、狂信的に介入してくる。そうすることが、熱心な信者の証であると錯覚している姿は、滑稽以外のなにものでもなかった。
実際に川口さんも発病1年ぐらいの時に、自分から進んで信仰を求め日蓮宗の道場で治療を受けていたのです。山にこもり、滝にも打たれるなど、教理もわからぬまま一生懸命に勤めていました。そんな彼が、自分の業を払いのけてでも学び触れたいと思うのが、キリスト教の教えだったのです。・・・発病して8年経過した川口さんの心に、明日への光が燈り始めていたのです。
(詳細はこちら:http://www.h2.dion.ne.jp/%7Emakibo/newpage137.htm)
彼がキリスト教に出会う前に味わった苦しみは僕も共感するところがある、いや、この病気を患った人全てが彼と同じ苦しみを味わっているはずだ。
そして、彼はキリスト教に救いを求め、僕は仏法に救いを求めた。
”信仰”とは、本当に苦しい思いを味わわないと理解されないものかも知れない。
そして、一度その信仰にどっぷり浸かってしまうと、他の宗教が”良くないもの”に見えてくるのかもしれない。
僕が所属する創価学会でも、グループ毎に”入会者の数”や”聖教新聞の購読部数”を競わせ、いろんなところで入会活動を行っている。
そして、多くの学会員がとても優しい心を持っているにもかかわらず、そのような活動によって「創価学会」のイメージを悪くしてしまい、その結果、キリスト教とは異なり、「僕(私)は創価学会に入って仏法を信仰している」ということを言いづらくしている。
残念ではあるが、いろんな人の意見を聞けば聞くほど、このことに確信を得てくる。
キリスト教の信者であったマザー・テレサが、その行動によって万人に感動を与え、その結果としてキリスト教のイメージが良くなっているように、いっそのこと、学会員も、「その行動」によって、学会員以外の人を含む”万人”に感動を与えることに力を入れてはどうだろうか?
僕は”創価学会の仏法”を「毎日毎日”南無妙法蓮華経”と唱えながら瞑想の世界に入って、その中で邪気を振り払い、”絶対的幸福の境涯”を究めることである」と
理解している。
つまり、僕の場合、「もうこの病気は治らない」と思うのではなく、「きっと元気になる。いや、僕が元気にしてみせる」という強い心を持つことである。
川口さんは、キリスト教を信仰することによって”死”を受け入れ、そして、その余生を、我々ALS患者が病気と共存しやすい社会にするために費やされた”すごい方”だ。
ならば、僕は、仏法によって、決して”死”を受け入れず、最後の最後まで「ALS患者が希望を持てる社会にする」ために尽力する”すごいやつ”になりたい。
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