「被害妄想」と「自信過剰」

  「被害妄想」と「自信過剰」。

 最近、この言葉が心に引っかかって離れない。

 「ALSという病気になっても自分はがんばっているのに周りはわかってくれない」という思いが心のどこかにあるのではないか?

 だから、”命に関わらない病気”を克服した人の話を聞いても「”命に関わる病気”とは重さが違う」という気持ちが浮かんでくる。
 それに「仕事で疲れた〜」という話を聞いても「疲れるほど一生懸命仕事ができるなんていいじゃないか。僕なんて、”紙を封筒に入れる仕事”だけで疲れるけど、それができても誰も”今日はがんばったね”って言ってくれないだから。それに、明日は”今日以上”にがんばらないといけない辛さがわかるか。」

 しかし、よくよく考えてみると、もし僕がALSという病気にかかったことがない状態で予期しなかった腹痛に見舞われたら「この世の地獄」のような気がするだろうし、それを治すことができたら「本当にあきらめずにがんばったよな」と思うに違いない。
 それに、この病気を患う前は毎日のように夜中まで仕事をしていたが、その時、周りの人に「仕事が多くて疲れた〜」ということを何度も言っていたような気がする。

 「がんばってもがんばっても病気が治らない。きっと、僕が一番きついに違いない」という被害妄想。

 これが、僕の世話を最もしてくれる人に対してさえ、時として「なぜこんなこともわからないのか!」と苛立ち「心から感謝する」ことができなかったのかも知れない。
 

 また、被害妄想の他に、僕の中には「なんでこんなことがわからないのか?」という”自信過剰”もあるような気がした。

 例えば、職場で「”当たり前”と思う”事務作業”の手法」がなかなか理解されない。それにイライラしてきつい口調になってしまう。
 そして、ついに、ある方から「
上の人も少しずつですが、職場を改善しようという気持ちはあるんですよ」と言われた。
 彼らは彼らなりに一生懸命仕事をやっているのに「最初から”自分の物差し”だけで見ていた」僕がいた。

 また、世界を股に掛けて活躍している知人からも「気をわるくしないで欲しいのですが、日本人でもアメリカ人でもあなたのように周囲より頭の回転のよい人が陥りやすいのは、今までのやり方に対し、無意識にしろ否定してしまい敵をつくってしまうことです。何かよいアイデアを実行したいときは、反対勢力のトップと話し、そのアイデアが彼の発案であるかのように錯覚させ、うごかすのが効果的です。坂本竜馬のやりかたです。目先の自分の手柄は捨ててかかることだと思います。・・・」

 そういえば、政策提案@プロジェクトAで”観光振興策”を協議していた時、「このチームで知事に提案する」ことばかり考えていたような気がする。
 だから、既存事業の改善を主とした企画書の内容に、知事から「既に○○のような事業をやっている」という”担当部署から説明を受けたような詳細な回答”が返ってきてしまい、結局、観光振興の一助にはならなかった。
 しかし、もし、知事にプレゼンテーションすると同時に、当部署に対し「あなた達の事業をこのように改善していけば観光客数は急増し、あなた方は歴史に名を残しますよ。ぜひ、取り組んでみてはどうですか?」という 話し合いをしていれば、もしかしたら、少しは観光振興に貢献していたのかも知れない。

「被害妄想」と「自信過剰」。

 今年度は、これを、なんとか、「心から感謝する気持ち」と「周りの人に自信を持たせる気持ち」に変えていきたい。

 そうすることが、”僕の夢”を叶えるための「遠いようで最も近い道」であるような気がする。 

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