4月25日(月)に起きたJR福知山線の脱線事故のニュースを見るたびに涙が出てくる。
親を亡くした苦しみ、子どもを亡くした苦しみ、どれをとっても辛くて涙が出てくる。
その度に、子どもから「お父さん、どうしたの?」と質問され、犠牲者の気持ちも考えずに「いいか!絶対に死んだら嫌だぞ」と言い、パートナーにも「いいか!絶対に死ぬなよ。もしお前が死んだら俺はもう病気と闘う気力が無くなるからな!」と言ってしまう。
亡くなった方にも「○○して生きていこう」というドラマがあったはずだ。
それが、”1〜2分の時間短縮”のために、”JR西日本の規則の見直し”のために犠牲にならないといけなかったなんて、あまりにも残酷すぎる。
また、生き残った人の中には「一生障害を持って生活をする」必要がある方がいるかもしれない。
その人達とその家族の方は、一生、ハンディキャップを背負うことになる。
僕は、その苦しみがわかるだけに、「いっしょにがんばろうよ!」と、声を掛けたい気持ちに駆られる。
結果的には多くの犠牲者を出してしまったが、その裏では、懸命の救助活動が行われていた。
例えば、現場西側の事業所で働いていたベトナムの人は、仕事を抜け出して、周辺の工場からバールを持ってきた人たちと救出を始め、「頑張れ」と励ましながら負傷した乗客十数人を引っ張り上げた。
そして、震災の時に「助けられたかも知れない命」を失ってしまった経験を持つ兵庫県災害医療センター(神戸市)の医師らも、「なんとしても助けたい」という一心で、一両目の下に潜り込み、三人の生存者に水を飲ませ、点滴をした。生存者の周囲に、すでに亡くなった人が多くいて、つらい現場だったが「冷静になろう」と自分の心にふたをして治療にあたった。「大きく息をして。頑張りや」と声をかけ続けたが、なかなか救出できない19歳の男性から、あきらめたように「ありがとうございました」と漏らされ、「何を言うてるんや」と怒鳴った。やっとの思いで救出した後、彼の意識が薄らぎ、瞳孔が開きかけたが、人工呼吸で回復させ、現在も治療中とのこと。
僕は、こんな体になってしまったが、もし現場に駆けつけることができたならば「絶対に彼らを救いたい」と心の底から思ったに違いない。
それができなかった悔しさはあるけれども、僕らの代わりに、一生懸命救出活動をしてくれた方には、心から感謝したい。
その一方で、創価学会が「世界平和のため」と言って懸命に購読者拡大活動をしている”聖教新聞”の26日(火)の一面記事は、「平和のために宗教は何ができるか」という見出しで”名誉会長の対談集”を最も大きく取り上げており、その翌日の一面記事には各地区の布教活動を最も大きく取り上げていた。
”布教のための新聞”と割り切ったのかもしれないが、辛い精神状態を克服するための方法の1つとして”信仰”があるのであり、こういったときぐらいは、布教活動を全面に出さずに、当事者の方々にとって「”慰め”のきっかけの一助にでもなるような言葉」を載せても良かったのではないだろうか?
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