僕は「法華教」の「人間は生きている間に仏(幸せ)になれる」と説いている仏法に惹かれて創価学会に入った。
その創価学会の座談会に行くと、ほとんどの幹部の人がこんなことを言う。
「”南無妙法蓮華経”という題目を唱えて治らない病気は1つもない。君の病気が悪化していくのは、君の題目の唱え方が足りないからだ。もっと一生懸命唱えれば、必ず治る」
そして、先日、こんなやりとりをしてしまった。
「・・・、ということは、創価学会が教える仏法とは魔法のようなものか?」
「いや違う」
「それに、何十年も創価学会の活動を熱心にしていた人で、若くして病気で亡くなった人もいるが、それはどう説明するのか?」
「仏法は魔法ではないが、心の底からご本尊を信じれば必ず治る」
「しかし、何人もの学会員が若くして病気で亡くなっているではないか!!」
「君はよけいなことを考えすぎる。このご本尊を心底から信じればいかなる病気も治るのだから、君はそれを信じればいい。それに何時か死ぬのは君だけではない。僕だって明日交通事故で死ぬかも解らないんだから・・・」
この人は、「余命を宣告されながらも病気と闘っている人」の心境と「明日交通事故で死ぬかも解らない」という健常者の心境を同じものだと考えている。
また、彼を含め、創価学会の幹部は、こぞって、「学会員でも病気で亡くなっている人がいる」という事実を無視して「ご本尊を心底から信じればいかなる病気も必ず治る」と信じて、病気で悩んでいる人に対し「もっと信心すれば必ず治る」と平気で説いている。
「百聞は一見に如かず」というが、学会の幹部は、創価学会が作った本をたくさん勉強し、病気で悩んでいる人をたくさん入会させていることもあってか、自分の意見が、いや、もとい、”日蓮聖人が多くに人に送った手紙”や”池田名誉会長の意見”が正しい、と自信を持って言っている。
しかし、たとえ、「一見」が「百見」あったとしても、決して、「1回の経験」には及ばないのだ。
だから、「お前が奇跡を起こすことを信じている」ということは言っても、僕と同じ病気を経験したことがないのに、矛盾のある{絶対治る」なんて言葉は決して言わないでほしい。
ただし、例外もあった。
今日、子ども達が、いつもきつそうにしている僕にし、粘土やビー玉を混ぜた容器を持ってきて、「お父さん、この薬を飲めば、絶対元気になるよ」と言った時、その科学的にはあり得ない薬に対し、「本当に元気になる」ような気がした。
つくづく、「病気を患った人の考えなんて矛盾だらけだ」、と思った。
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