考えて行動すること

 

 僕は、誰かの受け売りを聞いて心を動かされることはほとんど無い。

 どんなにすばらしいことを言っても、その人の行動が伴わないと心に響かない。

 逆に、何も言わずにこつこつ頑張っている人の後ろ姿にしばしば感動することがある。

 そんな性格が災いして、創価学会の人と対話してもなかなか意見の一致を見ない。

 僕は、釈迦の教えも、日蓮聖人の教えも、創価学会の池田名誉会長の教えもかじる程度しか勉強していない。
 だから、「創価学会の幹部の方と対話してもあなたでは話にならない」と言われ、「創価学会が主催する”仏法に関する初級テスト”を受けた方がよい」というアドバイスを受けた。

 創価学会にはいくつかの試験があり、それに合格することにより”教授”などの称号がもらえるそうだ。

 僕は、自分の中にある「仏という名の”幸福の石”」を磨くことができる、という教えを請うために創価学会に入会し、今日まで、勉強熱心な多くの学会員の方と対話 し、その結果、その石を磨くことができ、感謝している。

 しかし、どうしても”仏法に関する初級テスト”を受けようという気が起きない。
 というのも、 「与えられた問題を解く訓練しかしなかった人」が、その中でどれだけ優秀な成績を残したとしても、それが「社会的に見て優秀な人である 」とは必ずしも言えないからだ。

 僕は、自分で勉強し、その中に隠されている問題を見つけ、そして、その問題に対し「自分の中でその答えを見つけ、行動する」ことが大事だと思っている。

 釈迦は、釈迦族の王子として生まれながら、その身分を捨てて、一般庶民の中に身を投じて「この世を救えるのは何か?」と考えた末に”仏法”という悟りを開いた。
 そして、その後、その弟子達が、仏法に自分の経験値などを加えて「自分なりの答え」を元にした宗教の開祖となった。
 また、日蓮聖人は、
12歳のときからお寺で仏法を勉強した後、「法華教が釈迦の本懐である」という「自分なりの結論」を出し、「立正安国論」を著し、それを幕府最高実力者の北条時頼に送る、という行動を起こしている。

 だから、仏法の中で日蓮聖人の教えをくむ創価学会も、自分で勉強し、自分で答えを導き出し、その答えに従って行動する人たちの団体であってほしいと思っている。

 しかし、残念ながら、学会員の中でそれを実行している人は少ない。

 なぜか?

 それは、「上層部から言われたことをする」という考えが浸透しており、その考えの中心が、「入会者数」や「聖教新聞の購読者数」それに「公明党員の当選者数」などにノルマを課 して、そのノルマを達成した人に「福がある」として、その功労者を表彰すること、だからだ。

 僕は、「ALS支援の会」をボランティア団体として立ち上げてわかったのだが、人には「広報活動に向いている人」もいれば、「縁の下の力持ち」もいる。
 そして、どちらとも、一生懸命支援してくれる素敵な人たちだ。

 創価学会の中にも、「一生懸命教えを広めようとする人」もいれば、「その教えを元に人を救う活動をする人」もいれば、「ただただ”悟り”を開こうと題目を上げる人」など様々な考えの人がいて当然である。

 それなのに、ノルマの達成度だけで評価することによって、布教活動が苦手な人が「必要のない苦しさ」を感じることは絶対おかしい。

 そもそも、宗教は「競争社会」ではないのだから、「入会者数などの”特定の基準”だけで”人が人を評価する”こと」自体が問題であり、どうしても入会者数を増やしたいのであれば、1000万人の学会員がその 精神に従った”社会に貢献する活動”をもって「やっぱり創価学会の人はすばらしい」と思われるようになれば良いはずだ。

 先に挙げた「ALS支援の会」でも、「仮に僕が創価学会を脱会しても支援したい」という学会員もいれば、「資金面だけでも支援したい」という浄土真宗の方もいる。それに、他の地域では、キリスト教信者が中心となって「ALS支援の会」の活動を熱心に行っているところもある。

 だから、僕は、これからも、他人に対し「創価学会以外の宗教を信仰しても幸せになれない」という考えは持たず、他人に迷惑を掛けないことを前提に「全ての人の”考え”」を尊重していきたいと思 う。
 そして、僕自身も、他人の意見を参考にしながら、これからも、自分で考え、行動していき、自分の行動には自分で責任を負っていきたい。 


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