世間の理解

 

 最近、よくこんな言葉をかけられる。

 「君が仕事ができるのは職場の理解と協力があるからだということを忘れない方がよい」

 そんな時、僕はいつも「僕は職場に迷惑をかけている存在なのか?つまり、県民にとっても必要ない存在なのか?」と自分に問いかける。

 そして、答えはいつも「ノー」だ。

 これまでに一緒に仕事をしてきた職員の中には、「数値の入力ミスをした資料を提出した職員」ために何時間も時間を費やしたこともあるし、「毎回同じ質問をする職員」もいた。
 さらには、「月給15万円の嘱託でもできる仕事を月給40万円の人が非効率にやっている」場合もあったし、「どう考えても必要ないだろう」という管理職もいた。

 そういった人たちを差し置いて、腕が思うように動かない僕だけが「県民にとって最も必要もない存在」なのか?

 本当に県民のためを思うのであれば、僕のような「平均以下の給料をもらっている人」よりも「平均以上の給料をもらっている人たち」を徹底的に見直した方が効果が大きいのは明かである。

 それに、僕は「”全ての職員”が仕事ができるのは職場の理解と協力があるからだ」と思っている。

 そもそも、「君が仕事ができるのは職場の理解と協力があるからかどうか」ということは、知事や人事課が決めることであり、それ以外の人に「(特別に)君が」と言われる筋合いなんてないし、僕も職員に直接そんなことをいったことなど無い。

 僕たち公務員は、現状に文句を言うのではなく、「与えられた人材をどのように活用すれば最も効果的か?」に知恵を絞り、少しでも県民サービスの向上を促すことが仕事である。

 人は見た目で人を判断し、そして見下す。
 そして、無意識に差別用語を口にする。

 「ハンディキャップを持っている」と自覚している人が「健常者以上に体力や精神力を消耗して生活をしている」ことを知っているのか?

 そして、ハンディキャップを持った人が「君が仕事ができるのは職場の理解と協力があるから」と言われるとどんな気持になるか知っているのか?

 そもそも、人間が、「自分は迷惑をかけている存在」と自覚しながら生きていけると思っているのか?

 そんなことをいう人は、自分が言われても「はね除ける精神力」を本当に持っているのか?

 どちらかというと、僕よりも「君が仕事ができるのは職場の理解と協力があるからだ」と”無責任に言う人”の方が、県民の苦しみも分からない「公務員として、社会に悪」ではないか?

 僕は、誰になんと言われようが、まだ「全ての職員が仕事ができるのは職場の理解と協力があるからだ」と思うことができることが救いである。
 そして、ハンディキャップを背負いながらも必死に生きている人には「全ての人たちががんばれるのは、”君のがんばり”があるからだ」ということができる。

 ただ、パートナーや子供達に対してだけは、「僕が楽しく生活ができるのはあなた達の理解と協力があるからだ」と素直に思うことができる。

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