僕は毎週金曜日に「創価学会の座談会」に行っている。
目的は「仏法の勉強」なのだが、いつも話がそれて、「仏法vs僕の経験論(持論)」の議論になってしまう。
「日蓮大聖人の教えこそ、人を幸福にできる」という学会幹部の説教に対し、「カトリックでも無宗教の人でも幸せな人はたくさんいる」と持論を展開する僕。
「いや、そうではない。幸せに見える人たちも、日蓮大聖人の教えを信仰すればもっと幸せになれるんだ」
「人の幸せの基準なんて人それぞれ違うのに、自分の価値観を他人に信じさせようとするから争いが起こってしまうのではないか。それに、学会員のなかにも社会的なルールに反しているような人もいる。」
「キリスト教は戦争を認めているが、日蓮大聖人は認めていない。そこが大きく違う。」
「僕を含め、学会員の価値観を否定しているわけではなく、あなたも自分の価値観を大事にすればいい。ただ、学会員以外の人の価値観も認めようとしないのはおかしい。創価学会は”世界平和”を最大の目標としているが、そのためにはいろんな価値観との融合が大事ではないか。」
このような対話を通じて、僕は自分の考え方を再確認し、時には見直すこともできる。
だから、いつも帰りが23:30を過ぎてしまい、帰宅したときは家族全員が寝てしまっている。
そんな状況の中、いつも「マッサージをしてくれ」とパートナーを起こしてしまう。
そして、その度に「座談会に行くなとは言わないけど、遅く帰ってきた後に、”マッサージをしてくれ”と起こされても余りよい気分にはならない。たまには、”僕はこんな非常識なこともやっています”という”ひとりごと”でも書いてみたらどう?」と説教をされてしまう。
この説教には持論を展開する余地はなく、説教をしながらもマッサージをしてくれるパートナーに感謝するしかなかった。
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