感謝のハードル

 

 他の人の親切を素直に受け入れきれない自分がいる。

 朝の忙しい中、毎日洋服を着せてもらっているのに、襟が曲がったままほっとかれると「何で最後まできちんとしてくれないんだ!」と言ってしまう自分がいる。

 ”普通の歩き方”もできないのだから、「見た目ぐらいは普通にしておきたい」と思うからだが、着せてもらったことに対し「まずは感謝すること」がどうしてもできない。

 ここで感謝することができるようになれば、お互い幸せな気持ちになるのだろうが、どうしても一言言ってしまう。

 仕事でも、ハンディキャップによって自分ではできないことがあり、それによって他の人の業務を増やしているくせに、「○○のようにしてはどうか?」と業務改善策をつい口に出してしまう。

 かつて、戦後の日本人は、空腹をしのぐため、恥も外聞もなく、いろんな手段を使って飢えをしのいだという。

 だから、僕も、この際、恥も外聞も捨てて、「どうか、服を着せてください」「どうか、職場で働かせてください」という気持を持たないといけないのかもしれない。

 それなのに、僕は”変なプライド”に包み込まれてしまって、感謝の気持ちのハードルが高くなってしまっている。

 こんなハードルができてしまったのは、ハンディキャップをもったからだろうか?

 いや、ハンディキャップを持つ前から、「食事を作ってもらうのは当たり前」「仕事が自分ぐらいできるのは当たり前」と思っていたような気がする。

 この「変なプライド」の衣を1つ1つ脱ぎ捨てていくほどに、感謝の気持ちのハードルも低くなるのかもしれない。

 ただ、僕は今35才で、「ここからの20年間」のために自分を厳しく鍛えてきたつもりであり、簡単には衣を脱ぎ捨てることができそうもない。

 こんなことなら、これまでの人生、あんまり頑張らなかった方が”着ている衣”は少なかったのかもしれない。

 他の人に自分の意見を話す度に、こんな哲学みたいなことを考えるようになった。


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