(7.28)
ピアノを辞めた日
最近、ずっと、妻の機嫌が悪い。
その理由の大部分は僕が占めているのだろうが、ほんの少しだけ、「長男がなかなか自分一人ではピアノの練習を始めないこと」も含まれていたようだった。
ピアノの先生からは「小学校の1,2年生になるまでは親の協力が必要」とは言われているのだが、どうやら、お母さんとしては、1日も早く一人で練習をさせたかったようだ。
「お母さんがご飯を作っているときに練習しなさい」
「お母さんが洗濯物を干している間に練習しなさい」
「絵本を読んでほしかったら練習しなさい」
いろんなことを試してみたが、なかなか一人では練習をしない。
その理由は明白だった。
だって、長男は、「お母さんを独り占めできるし頑張れば誉めてくれること」が嬉しくてピアノの練習をしていたのだから。
そのお母さんがそばにいないし、上手に弾けても誉めてくれない。
これでは何のために頑張っているのかわからない。
しかし、それを妻に説明しても、「何を言ってるの!ピアノは自分のために頑張っているのよ。そんなこともわからないの?」とバカにされるだけ。
また、残念なことに、「お母さんの代わりにお父さんがずっと見てるよ」と言っても効果はない。
やっぱり、”お母さんが一番”のようだ。
人が頑張る理由なんていろいろあるものだ。
好きな人と一緒の大学に行くために必死に勉強する人もいれば、家族を養うために上司に嫌みを言われながらも頑張って仕事をしている人もいる。
そして、その結果として、後で振り返ってみると自分のためにもなっている。
だから、「頑張るとお母さんに誉めてもらえること」が嬉しくてピアノの練習をしてもいいはずなのに・・・。
こうして、長男はピアノの練習をしなくなっていった。
そんなある日のこと、長男が悲しい顔をしてこんなことを言った。
「お父さん、あのね、ピアノ教室に行くとね、先生が、僕にだけ”もっと練習しなさい”って言うんだ。でも、お母さん、教えてくれないし弾き方がわからないし・・・、もう行きたくないんだ。お母さんは”お父さんに相談しなさい”って。」
実はこれまでに、僕も「口だけで弾き方を教えよう」としたのだが、今の長男のレベルにおける”10本の指の動き”を口だけで教えるのは無理がある。
もう他に方法がない。
ついに、長男にピアノを辞めさせる日が来た。
「そっか。これまで2年間もよく頑張ったね。ご褒美に今度アイスクリームを買ってあげるね。」
「え?やったー!」
こんなに喜ぶとは・・・、よっぽど、つらかったんだなあ。
これで長男のピアノ演奏が聴けなくなると思うと少し寂しいけど、その代わり、長男の笑顔が見れたから”よし!”としよう。
そして、妻に言った。
「この2年間、頑張って長男にピアノを教えてくれてありがとね。」
これによって妻の機嫌が良くなるとは思わなかったが、これまでの”妻と長男との格闘”を思い出してしまい、思わず、ポロっと口から出てしまった。
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(7.24)
子ども達の災難
今朝、妻が僕を起こすなり、「寝坊してしまった。どうしよう」と言った。
妻の顔を見るととても困っている様子。
「よし、わかった。僕に考えがあるから、子ども達の準備は僕に任せて。だから、あなたは自分のことに集中してね。」
実は、僕は、また、最近再発してきた「寝起きが悪い子ども達とお母さんとのバトルを何とか止めることが出来ないだろうか?」とずっと考えていたのだ。
そして、今日、ついにそれを試すときが来た。
まずは、予め録画しておいた教育テレビの「幼児向け英語番組」を再生する。
音楽がたくさん流れるこの番組によって、子ども達にはしっかり目を覚ましてもらい、それと同時に、目覚めたばかりの頭に英語を聞かせることによって、その発音に慣れてもらう。
この作戦は見事に成功し、子ども達は、ゴロゴロしながらも「エ〜ビ〜シ〜」と歌っていた。
つぎは、「教育アニメ番組」の再生。
英語の番組を見てすっかり目が覚めた子ども達は、今度は起き上がってこの番組を見ようとした。
そこで、”一時停止ボタン”を押してこんなことを言ってみる。
「はい、この続きが見たい人は急いで洋服に着替えて朝ご飯を食べましょう。」
すると、子ども達は、うそみたいに「我先に」の勢いで洋服に着替えてご飯を食べ始めた。
そして、アニメが終わる頃にはすっかりご飯も食べ終えていて、子ども達は気分良く歯磨きをしに行った。
ただいまの時間、7時45分。
ちょうど、出発の時間だ。
子ども達は、ご機嫌な気分で玄関に向かおうとしたのだが、そこで、お母さんから「待った!」がかかった。
どうやら、急ぎ過ぎて7時40分に準備が終わってしまった妻は、夕食の下ごしらえまで始めてしまったようだ。
「後、少しだけ待ってね。」
しかし、子どもの気持ちはすぐに変わるもの。
お母さんのこの”一言”で、子ども達はなんだかつまらない気分になってしまい,ゴロンと寝っ転がってそのまま寝てしまった。
僕もなんだかしらけてしまって、テーブルに頭を乗せてうたた寝をしてしまった。
7時55分。
「キャ〜!もうこんな時間。子ども達、起きて!急いで出発するわよ!」
「う〜ん、眠いし・・・、もう行きたくない。」
「何をわがまま言ってるの!早く起きなさい!」
ペシッ!
「オイオイ、どうして子どもを叩くんだよ。わがまま言ったのはお前の方だろ。」
「あなたは私を遅刻させたいの?もういいから黙ってて!子ども達は急いで起きなさい!ペシッ!」
僕は妻の迫力に押されて何も言えなくなってしまい、結局、子ども達は、いつものように、お母さんに怒られながら保育園に向かうことになった。
子ども達は、頑張ったのに・・・。
災難な朝だった。
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(7.19)
ボランティアの代表
ALS患者支援の会という「ボランティア団体」が出来てから1年以上が過ぎた。
そして、僕は、今も図々しくその代表に居座っている。
何も出来ない名前だけの代表・・・。
こんなことを考えると、なんだか少しむなしくなってくる。
僕は、この会の役員のみんなが大好きだ。
代表は何もできないのに、それでもALS患者のために頑張ってくれるみんなが好きなんだ。
しかし、僕には、役員のみなさんに何もしてあげることができない。
そして、役員の方が「もう会を辞める」と言えば、それを止める手段も魅力もない。
だから、せめて、役員のみなさんが「頑張ってやったこと」は、どんなにきつくても、現場に足を運んで、「お疲れさま」ぐらい言いたいと思っている。
それでも、「役員を辞める」と言われると、白髪が増えるぐらい辛くても我慢するしかない。
僕には、みんながどんなにすばらしいことをしてくれても、「ありがとう」と言うこと以外には感謝のしようがない。
やっぱり、ちょっとむなしい。
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(7.16)
いろんな”プロ”
僕の子ども達は”親を怒らせるプロ”である。
いろんなことを注意すると、その時の感情で無視したり「イヤだ」と正面切って、しかも体全体を使って抵抗してくる。
これに対抗するには、やはり、こちらも”親のプロ”になるしかない。
さすがに、子ども達は若いため吸収力が高く、めざましいスピードで”親を怒らせるプロ”の技を身に着けていくのだが、年輩の大人達が「怒鳴らない」「叩かない」「忍耐強く注意する」などといった”親のプロ”になるなめの技を身に着けるためには、ある程度の時間と厳しい修行が必要になってしまう。
幸い、僕には「怒鳴れない」「叩けない」といった”生まれ持った才能”があったため、あとは「忍耐強く注意する」ことに気を付ければよかったのだが、何も才能に恵まれなかった妻は、日々の修行の厳しさに悲鳴を上げている。
そんな妻ではあるが、”僕を怒らせるプロ”になるための才能は、十分持ち合わせていた。
その才能とは、僕のお願いを無視したり「イヤよ」というものであり、なんだか”親を怒らせるプロ”の技に似ている。
だから、僕は、生まれ持った”親のプロ”の才能を応用して”夫のプロ”の技を身に着ければいのだが、どうも勝手が違い、自分の才能にイライラしてしまう。
”親のプロ”と”夫のプロ”。
この2つは、似て非なるものなのだろうか?
やはり、円満な家庭を築いていくためには、妻同様、僕にも”厳しい修行”が必要のようだ。
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(7.10)
辛い季節
梅雨の季節になると、なんだか気が滅入ってしまうことが多くなるが、そんな時、どこからともなく、決まって”何もできない僕”を励ましに来てくれる”仲間たち”が現れる。
パソコンの前で落ち込んでいると、足の至る所で「頑張れ!頑張れ!」と言いながらダンスをしてくれる仲間達。
彼らは黒くて小さいため、なかなかその姿を見ることはできないが、彼らが来ると、どんなに落ち込んでいてもなんだか足がムズムズしてきて、一緒にダンスをしてしまいたくなってしまう。
また、トイレに行くと、今度は”長い足の仲間達”がやってきてくれる。
彼らは、僕と目が合うと、いつも、ニコっと笑って優しくキスマークをつけてくれる。
僕はその瞬間「やられた!妻に見つかったらどうしよう?」と考えてしまうが、いろんなところにキスマークを付けられていることがわかると、なんだか、「まあいいか。これだけキスマークがあると、きっと妻も笑って許してくれるに違いない」という気持ちに変わってくる。
でも、彼らがいなくなると、なんだか寂しい気持ちになって、”彼らがいた場所”を無性に触りたくなる。
しかし、僕は、それさえもできない。
そして、それに気付いた時は、とても一人ではいられなくなって、つい、大きな声を上げてしまう。
「おーい、誰か〜。”かゆみ止め”を塗ってくれ〜!」
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(7.9)
あめ・あめ作戦
妻が仕事帰りに子ども達を保育園に迎えに行く楽しみの1つに、「あっ!お母さんが来た!」と言って駆け寄ってくる子ども達の笑顔があった。
しかし、6歳と4際になった子ども達は、次第に”お母さんのお迎え”よりも”友達と遊ぶこと”の方が楽しくなっていき、お母さんが迎えに来てもなかなか帰ろうとはしない。
そして、そのことが段々つまらなく思えてきた”お母さん”は、とうとう「もう保育園にお迎えに行きたくないので、明日から送迎バスにお願いする」と言い出した。
そこで、”お父さん”の出番がきた。
お父さんは、体が不自由だから保育園までは迎えには行けなかったが、送迎バスを利用することによる「家の中でのお迎え」だったらするができる。
それにしても、送迎バスを利用するようになると、子ども達が家に帰ってから妻が帰ってくるまでの時間は1時間もあり、この間、何もしないのはもったいない気がする。
そこで、この1時間を利用して「子ども達をお風呂に入れること」に挑戦してみることにした。
”挑戦”と言っても、僕が直接お風呂に入れてあげることはできないし、子ども達も簡単にはお風呂に向かおうとはしないだろう。
そこで考えたのが「あめ・あめ作戦」だ。
まず、子ども達が帰ってくる時間に合わせて、これまで夕食後に見ていた”アニメの録画番組”を再生しておく。
すると、送迎バスから降りてきた子ども達は、テレビの音に惹かれてまっすぐ部屋の中まで入ってくる。
次に、ビデオを一時停止にして、「冷蔵庫に冷たいものがあるよ」と言って、子ども達を”浴室の横にある冷蔵庫”まで連れて行き、「仲良くお風呂に入れたら、このジュースを飲みながらテレビの続きを見ようね」と言う。
この「あめ・あめ作戦」。
子ども達への言い方に多少の工夫が必要だったが、「初めての子ども達だけのお風呂」だったにもかかわらず、なんと、お兄ちゃんが妹のお手伝いをしながら仲良く2人でお風呂に入っていったのだ。
いったんお風呂に入ると、”水遊び”に夢中になってなかなか出てこない。
それに、今日は「いいかげんに出てきなさい!」と怒る人はいないし、僕も、お風呂場から「キャッ!キャ!、キャッ!キャ!」と聞こえてくる子ども達の声を楽しんでいる。
しばらく経って、十分お風呂を楽しんだ子ども達は、驚くことに自分たちで”風呂のフタ”を閉めて上がってきた。
そして、満足そうな顔で冷蔵庫からジュースを出してビデオの”再生ボタン”を押した。
こうして、子ども達をお風呂に入れる作戦は見事に成功した。
そういえば、そもそも、世間では「子ども達の入浴はお父さんのお仕事」と相場は決まっている。
ちょっと形は違うが、我が家でも、「世間一般の”お父さんの仕事”」がまた1つできるようになった。
そう考えると、何だか嬉しくなってくる。
1時間後、仕事から帰ってきた妻は、自分の出迎えもせずにテレビに見入っている子ども達の姿にちょっと不満そうだったが、いつもより30分以上も早く寝ることができたことには満足していたようだった。
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(7.6)
”お母さん”の気持ち
今日、妻は、家に帰ってくると、「あ〜疲れた〜」と言って一人でお風呂に入り、お風呂から上がると「もう寝るね」と言って寝室に行こうとした。
「おいおい、夕ご飯は?」
「車の中で食べてきた。」
「じゃあ、子ども達の分は?」
「え?いるの?」
どうやら、妻は、保育園からの帰り道で子ども達とケンカをしてしまったようだ。
「頼むから子ども達のご飯だけでも作ってくれないか?」
「・・・。」
しばらくして子ども達の夕食が無言で出てきた。
「もう寝るね。」
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ。後は僕に任せてくれてもいいけど、せめて子ども達がご飯を食べてしまうまではこの部屋にいてくれないか?」
「・・・わかったわ。」
さ〜て、ここからは僕の腕の見せ所だ。
まずは、お風呂。
「お〜い、子ども達。お風呂に入らないと、ばい菌がいっぱいだからお布団で寝られないぞ〜。」
すると、子ども達は「ばい菌こわ〜い」と言ってイソイソとお風呂場へ向かった。
次はご飯。
と思っていたが、お風呂に入ったらお腹が空いたようで、何も言わずにご飯を食べてしまった。
その次はお皿の片づけ。
「お〜い、子ども達。お皿を片づけないと、明日のご飯を入れるお皿がないので、明日からご飯が食べられないなるぞ〜。」
これまたうまくいった。
後は、歯磨きだけだ。
「お〜い、子ども達。きちんと歯を磨かないと、明日のお菓子はないぞ〜。」
ここで、いままでソファーで雑誌を読んでいた妻の口が開いた。
「あなたの言い方を聞いていると、なんだか、子ども達に”罰則”を与えて”言うこと”を聞かせようとしているように見えて不愉快だわ。」
カッチ〜ン!!
「そんなことを言うのなら、まず、お前が”言い方”のお手本を見せてくれよな。」
「・・・、子ども達もご飯を食べたようだから、もう寝るわ。」
「なんだ。できないんだったら、最初から口を出すな!こっちは”出ない声”を出して必死にがんばっているのに・・・。ムカつくな〜。」
ハッ!
もしかすると、妻はいつもこんな気持ちで僕の話を聞いていたのだろうか?
しまった!
僕は慌てて「お〜い、ほんとうは全然ムカついてないからね〜。おやすみ〜。」と言ったが、時すでに遅し!
妻からの返事はなかった。
それにしても、世の中のお母さん達は、毎日、こんなにイライラする”周りからの雑音”に耐えながら子育てをしているなんて・・・。
あなた達は偉い!
こんなことを声を大にして言いたくなった。
もちろん、僕の妻も偉い!
だから、もう寝てもいいよ。
「ゆっくりおやすみ。」
僕はもう一度、寝室の妻に聞こえるように、できるだけ優しい声でこう言った。
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(7.5)
いなくなった娘
18時30分。
いつものように、妻と子ども達が帰ってきた。
しかし、その中に娘の姿がない。
「あれ?娘は?」
「車からなかなか降りようとしないからもう置いてきたの。」
「おい、おい、もう暗いし、最近、物騒だから連れておいでよ。」
「大丈夫、大丈夫。」
それから30分経ち、長男も、妹がなかなか帰ってこないことが心配になって車まで迎えに行くことにした。
しかし、車の中や家の周りにはどこにも妹の姿が見あたない。
そのことを聞いた僕は、妻に「お願いだから娘を探しに行ってくれないか」と繰り返しお願いした。
外はもう薄暗い。
さすがに妻も少し心配になってきたようで、サンダルを履いて探しに出かけた。
僕がいる家の中にも、時々、妻と長男が呼ぶ”娘の名前”が聞こえてくる。
それから10分後、妻が家に帰ってきた。
「おい、娘は見つかったのか?」
「近くの公園まで行ってみたけどいないのよ。今から車に乗って少し遠くまで探しに行ってみる。」
そう言うと、妻は急いでサンダルから靴に履き替えて、また出かけていった。
何だか嫌な予感がしてきた。
こんな時、”となりのトトロ”がいてくれたらいいのに・・・。
それから、また、10分が経過した。
ガキャッ。
玄関の開く音。
「ただいま〜」
その声の中には聞き覚えのある娘の声も含まれていた。
どうやら、車から降りて遊んでいると、近所のおばさんから「犬の散歩に行くんだけど、いっしょに行かない?」と誘われて、少し離れた公園まで付いていってしまったようだ。
親に無断で4歳の子どもを散歩に連れて行くおばさんの行動にも少し驚いたが、「やっぱり、暗くなってきたら親がきちんと子どもを見ておかないといけない」と改めて痛感した。
それにしても、この20分間、僕は「病気はもう治らなくてもいいので娘を家に帰してください!」とひたすら祈っていた。
”親心”は”病気の恐怖”をも超越する。
そのことを改めて実感した日でもあった。
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(7.3)
僕の”英語”
最近、僕は”英語”をよく話すようになった。
日々上達していく僕の”英語”に、ヘルパーさん達も最初は戸惑っていたが、できるだけ日本語を交えて話すことにより、勉強熱心な彼らは徐々に僕の”英語”が理解できるようになっていった。
また、妻は「習うより慣れろ」の精神で、毎日僕の”英語”を聞いているうちに聞き取れるようになっていった。
でも、一番すごいのは、なんといっても6歳と4際の子ども達だ。
彼らは、生まれたときから”英語漬け”の生活をしてきたせいか、いまでは、少し難しい”英語”でも良く聞き取ってくれて、時々妻に通訳してくれるときもある。
本当に頼もしい子ども達だ。
一方、一番問題なのは「勉強する時間はないが英語は聞き取れるようになりたい」という人である。
この人は、「僕の”英語”がわからない」と言ってはよく周りの人達に愚痴を言うのだが、「だったら勉強においでよ」と誘っても「今日はちょっと用事が、、、」と言ってなかなか勉強をしようとしない。
人にはそれぞれ「やりたいこと」があると思うし、僕は「全てを捨ててまで勉強に来てほしい」とも思わない。
ただ、「僕の”英語”を理解したい」と言うだけでは決して上達しないし、この”英語”は、僕の意思とは関係なく毎日難しくなっていくことは理解してほしい。
それに、そのことを僕に嘆いてもらってもどうしようもない。
「自分ではどうしようもないこと」を愚痴られても、僕はもう「僕の”英語”をわかってあげたいという気持ちだけはありがたくいただいておくので、どうか、自分の”やりたいこと”に全力投球してください」としか言いようがない。
「冷たいなあ」と思うかも知れないが、もうそれしか言いようがないのだ。
母上様、どうか、僕の心中をお察し下さい。
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(7.1)
悪い癖
「明日の記憶」。
この映画は、50歳でアルツハイマー病にかかった男性が主人公の物語である。
アルツハイマー病とALS。
この2つの病気に共通しているものは、どちらも「徐々に自分では何もできなくなって介護者が必要になる」ということ。
逆に異なる点は「記憶力の喪失と運動能力の喪失」。
そして、愚かなことに、「ALS患者からすると”いろんな辛いことを忘れてしまえるからいいなあ”。でも、介護者から考えると”傷つくことを言われても、そのことを忘れられると辛いだろうなあ”」と思ってしまった。
しかし、すぐに、「どちらもたいへんな病気なんだ」ということに気付く。
”病気のつらさ”というものは、その病気を患って初めてわかるものなのに・・・。
他の病気をみると、「自分の病気とどちらがたいへんなんだろう?」と比較してしまう癖。
こんな悪い癖は、早く治した方が、もっともっと幸せになれるに違いない。