〜英雄への叙曲〜

 むっとした表情のオディオが牢獄水路の老人の前に座っている。
『奇妙な質問をするのぅ……実験済みなら文句を言わずともいいじゃろうに』
「妖しい言い方をするな!」
 やはりこの朴訥な青年はからかい甲斐がある。願わくばもっと早いうちに出会っていたかったものだと老人は思いを馳せる。
 ほんの数日しか経っていないと言うのに満身創痍だったのが信じられないほど回復している。それどころか驚くほど力が漲っているのが自分でも分かる。
『それでなんじゃったかの。はてはて』
「繰言を私に言わせるつもりか」
 ゆらゆらと目に見えるのではないかと言うほど怒気を滾らせている男をさらりと受け流す。
『お前さんに言われてから、まあ片手間に調べておいたぞ。感謝せい』
 ぱらぱらと本をめくる姿をうんざりしながら眺める。
 片付けたばかりだというのに、もう嵐の後のようになっている。
『お前さん、あのお嬢さんから歌を聞いたと言ったの。その中にあるはずじゃ。勇者が本当に必要としていたものがの』
 恥ずかしくてそうそう口にできるものではない。とりあえず短く返答する。
『血や涙に力を与えてしまう能力が備わってしまったのは、いわば強すぎる力の副作用じゃ。《エンハンス・ブラッド》の乙女が本当に力を与えることができるのは、ただ一人。それだけじゃ。媒体など必要あるまい。最初から形の無いものだからの』
 やれやれと、予測の範囲内だった返答に、裏づけができただけだと肩を竦める。
「しかし私が勇者サマとはな。世界も皮肉なことをする」
 くっくっとくぐもったように嗤う男に、老人はさらにそれを上回るような朗らかな笑いを披露する。
『勿論、媒体を通して得られる力は大きなものじゃ。しかもお前さんだけは特別、血や涙だけでないというのはお前さん自身が立証済み。よかったのぅ』
 ばたんっと扉が乱暴に閉まる。
『そう慌てて出て行くこともあるまいに……また片付けてもらおうかと思ったのじゃが……』
 そっと扉が開き……恐る恐る顔を覗かせてきた女性に老人がおやおやと顔を向ける。
「あの……オルステッド様、なんだか随分ご立腹のようでしたけど……」
『あの若造は何年生きても忍耐が足りんと見える』
 少し矛盾した言葉にルレイシアは曖昧な相槌を打つ。
『ちょうどよかった。お前さん、片付けは好きかね』

 本を片付ける姿を眺めながら、老人はあれこれとこの世界で起きたことを語る。
 その一つ一つを刻むようにルレイシアは聞き入った。
『……これからが大変じゃろう……一度宿った魔の力は簡単には消えぬ。あの男がそれをどう使っていくか……お前さんはその名前に恥じない娘さんになってほしいものじゃが……』
「オルステッド様がつけて下さった私の名前……そういえば私が元いた世界と同じ意味で、同じ名前だったなんて……偶然とはいえ、ちょっと吃驚しました。ルクレチアと関わりのある世界だったのでしょうか?」
『さて……それは分からぬが……お前さんもよくあの男の本来の名前を知っていたの』
 とん、と本が納まる心地よい音が響く。
「精霊たちは時々私にいろんなことを教えてくれます。たぶんその一つだと思いますよ」
 自己主張するように炎の精霊が現れて、慌てて抱き締める。ここで遊ばれては本が燃えてしまう。
 ぽんっと軽快な音を立てて精霊の姿が消え、ほっと息を吐く。
『よき名前じゃ……《優しく見守る愛情》……アリシア姫もお主と同じ名にすればよかったかの』
「《純粋な愛情》……アリシア様はその名前の通り、純粋にオルステッド様を愛され……ストレイボウ様を愛された。少しだけ……歯車が食い違ってしまったために、たくさんの悲しみを生んでしまった……」
 本を片付け終え、ルレイシアは優美なお辞儀をする。
「今日も勉強になりました。また来ますね」
『うむ。お前さんのような綺麗な娘さんと話をしているほうが、あの無愛想な男を相手にするより心地よい。また遠慮せず来なさい』
 心にも無いことを……とルレイシアは苦笑しながらさっと印を切る。この老人がオディオをからかうことを愉しんでいるのを重々承知してる。
 ふわりと白い羽が数枚舞い上がり、光の中に姿が消える。

『《世界を守るもの》……たいそうな名前をもらっておきながら、あの莫迦者が……』
 ぶかりとパイプを燻らせる。
『まあよい……何故《世界》があの男の下に彼女を寄越したのか……しばらくは楽しめそうじゃ』
 ぽんぽんと灰を落とすと、その姿がただの蛍火へと戻る……。

 漆黒の世界に赤い翼が舞い降りる。
 意識を内側に向ければ……滾々と溢れ出る力に心が躍る。
 今ならば……できる。
 そして、終わりにもできる。

「来たれよ……人間に未だ幻想を抱くものよ……誘おう……真実を知らしめんために……」

 ばっと深紅の翼が広がり……時を越え、世界を超え……その羽が英雄たちの前にはらりと散る。

 世界とは規模ではない。
 一人の人間、一個の街、自分に関わるその空間で、正義を貫き、英雄の心を手に入れたものがいること……それが《世界を為す》こと。
 選りすぐりの、《世界を為した》強い英雄の心を持つ者たちと戦えば、自身の身体に内包された魔王の力を消し去ることができるだろう。

 ただ一人の剣士に戻れたその暁には。

 すっとその手に魔剣ブライオンが現れる。
「行け……そして、かつての私のように、英雄を私のもとに導くがいい」
 ブライオンは主の心を感じ取ったかのように小さく震え、虚空に消える。



 その後、魔王の姿を見たものはいない。
 あるものは魔王が英雄たちにより討伐されたともいい、またあるものは英雄たちは魔王に敗れ去ったともいう。

 ただ一つだけ、禍々しい気配の薄れた魔王山を訪れた旅人の一人は、不意に魔物に襲われた際、一人の凛然とした剣士と、可憐な魔道士に命を救われたという……。