7)神はいかなるお方か−1 |
前回まで数回にわたって神様の存在について話しました。それで神が存在することについてはこれでよしとして、今回からそれでは「神はいかなるお方か」を見ていきたいと思います。 その前に一つ質問です。無限と有限の間にはどれくらいの距離があると思いますか。「無限と有限の間の差は無限」というのが正解でしょう。さて、神様は無限で、対する我々は有限な存在。ということは神と人間の差は無限ということになりますよね。そこで、人間が無限の神様については何も知ることができないと考えた人もいました。彼らは「神様については、例えば、神様は物質でない、時間的、空間的制限がない、欠点がない、など≪何でないか≫を知ることができても、≪何であるか≫を知ることはできない」と言うのです(これを「否定の神学」と言います)。 カトリックの神学はこの「否定の神学」を乗り越えました。神様の存在を証明する仕方を覚えておられますか。それは私たちが目にする被造物を観察して、結果から原因に遡る仕方で被造物の最終の原因にいたるものでした。この世界は神の作品ということができますが、それならこの作品にはその作者である神の特徴の一部分が反映されているはずです。ちょうど、芸術家の作った作品(音楽でも、絵画でも、彫刻でも、建築物でもいいです)に、その作者の何かが反映されているように。こうして、我々の限られた知性にもかかわらず、≪神が何であるか≫を、きわめて不完全な仕方でですが、知ることができるのです。 例えば、被造物を観察すると、全ての被造物は「存在している」ことがわかります(と言いましても、この明白な事実を悟る人は少ないですが)。そして、存在するものはみな、善である(意志を引きつけるもの)、真である(知性によって把握できる)などというようなことが言えます。存在や善や真などの被造物がもっている特徴は、創造主である神が最高限度に持っているはず。なぜなら、誰も持っていないものを他のものに与えることはできないからです。(この説明はかなり雑です。次回にもう少し丁寧に説明します)。 真、善、美、存在などの中で、神様の本質を最もよく言い表しているものが、実は「存在」なのです。神様がモーセにお教えになった名前「我は有る者」は、非常に深い意味が隠れている。「存在そのもの」であるものは無限なもので、無限なものは永遠で、また全知全能であるはずです。紙面の関係上これらのことについて深く説明できませんが、お暇なときにでも少し考えてみてください。 ただしここで、先ほど話しました、神様と私たちの間には無限の隔たりがあることを思い出す必要があります。つまり、私たちの知っている「存在」、「善」、「美」などは、「有限の存在」であり「有限の善」であり「有限の美」なのですが、神様は「無限の存在、善、美」なのです。つまり、私たちが「神様は善です」というとき、「私たちの知っている善」を無限に引き伸ばした「善」であるということを忘れてはならない。たとえば、何か不幸な事件が私たちに起った場合、「なぜ善である神様がこのような不幸を私にお与えになるのか」と考えるのは、幼稚な間違いなのです。その場合、正しい考え方は、「善である神様がこのような不幸を私に望まれたのなら、その不幸はきっと何かの善のためであろう」ということです。神様は私たちの限りある頭では完全に理解できないことを、しばしば思い出す必要があります。
今説明したことは、「神とはどのようなお方か」について人間が自分の知恵を絞った末に得る知識です。それはきわめて乏しい知識といえるでしょう。それだからこそ、神様はご自分を人間に示してくださいました。これが啓示です。この啓示は、旧約時代から始まり、イエス様によって完成されます。イエス様は、人間が思いもよらなかった神様の愛をお教えになりました。次回からそれを見ていきたいと思います。
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