8)神はいかなるお方か−2 |
前回はこの世界に存在するものを通じて知りえる神様の特性を簡単に紹介しました。今回はイエス様が、神様はいかなるお方かについてどのように教えられたかに目を移していこうと思います。 まず、神様は無限なお方で、他方私たち人間は有限であるということをもう一度思い出してください。この両者の間に横たわる距離を強調するのが、イスラム教です。イスラム教やユダヤ教は、神が人間になるということ自体が冒涜だと言います。彼らの言い分はある意味で常識的です。大会社の社長が平社員と一緒に釣りに興じるという映画がありますが、このような気さくな社長を現実社会に見つけるのは困難でしょう。しかし、私たちは会社の社長より無限に偉大な神様が人間になり、さらにはパンの外観の下にお隠れになってくださったことに対しても無頓着にさえなります。今言いましたイスラム教徒の主張を聞くと、この無頓着には陥ってはいけないことが理解できるのではないでしょうか。 さて、キリスト教は神様が御子を通じて私たちにご自分がいかなる者であるかを知らしてくださったと信じます。「神はかつて預言者たちによって、多くの形で、また多くの仕方で、先祖たちに語られたが、この終りの時代には、御子によって私たちに語られた」(ヘブライ、1章、1)。前回見ました、神様が真、善、美そのもの、また唯一のお方であるというのは、聖書にも出てきますし、キリスト教以外でもそのように教える宗教や思想家はあります。ではキリスト教だけにある教えは何でしょうか。 もっとも深遠で、神の啓示がなければ人は絶対に知りえない真理が、神は三位一体であるという秘義です。ただ、この秘義についてはまた別の機会に説明することにして、今回はもう一つのキリスト教の特徴、「神は愛である」(ヨハネ第一、4章、8)ということについて少し見てみたいと思います。 イエス様は神様が人間の父であると教えられました。しかし、神が人間の父であるというのは他の宗教にも見られる教えです。イエス様の教えの特徴は、神がいかに深く人間を愛される父かを如実に示したところにあります。神は、人間を愛によってお造りになり、近くから見守り、贖い、また赦されます。もちろん、罪人が悔い改めない場合は正義によって裁かれることも真実なのですが、神様にとって人間とはかわいくて仕方がない存在だということがイエス様の教えから分かります。 愛という言葉は、現今あまりに安っぽく口に出されるために擦り切れているとよく言われます。この神様が私たち一人一人を愛しておられるという、おそらく耳にタコができるくらいよくお聞きになった真理は、これ以上読んだり聞いたりするより、各自が、愛するとはどういうことかを考え、同時に聖書を黙想したり、霊的な書物を読んだり、神様との対話をしたりすることによって味わうしか仕方がないのでは、と思います。 ただし、この教えは私たちには普通のことのように思えても、実は驚天動地の真理であることを頭に入れておきましょう。現在何か大きな苦しみを背負っておられる方には、十字架の上におられるイエス様に近づくことを教会は勧めています。また、このような神様に関する認識は、神様のお恵みがなければ理解し得ないことも考えて、聖霊の助けも願ってください。
この世には他人から助けてもらっても、それをありがたく思う人と、そうでない人がいます。この違いはどこから来るのでしょうか。それは、他者を愛する(他人につくす)という経験をした人だけが、他人から受ける愛をありがたく思うことができる、というところにあると思います。ということは、神の愛をどれほど理解できるかは、私たちが普段から隣人のことをどれほど気にかけているかによるからです。「愛することのない者は神を知りません」(前掲書)と言われる所以です。神様をありがたく思わないなら、毎日の家族生活や仕事場での隣人に対する態度を反省しなければなりません。
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