9)創造−1

 今まで神様が存在することと神様がどういうお方であるかを簡単に見てきましたが、その次は神様が何をされたかを見ます。神様の最初のみ業が天地万物の創造です。

 聖書は「初めに神は天と地を作られた」という言葉で始まっています。ご存知のようにこれに続いて6日間で神様は天地万物を整えられていきます。これを読んで「あれ、ビッグバンや恐竜のことが出てへんやん」といぶかしがる人もいます。聖書の教えは現代の科学の教えとだいぶ違うように見えることは否定できませんね。

 しかし、この違いに教会は目をつぶってきたのではありません。すでにローマ時代からカトリックの神学者たちは、聖書を文字通りにではなく比喩的に解釈するべき箇所もあることを教えています。また近代になって自然科学や歴史学や考古学が進むにつれ、聖書と科学はどう調和するのかが問題になってきました。このような問題を研究するために20世紀の初めに教皇聖ピオ10世は「聖書委員会」という機関を作りました。この委員会に当然のように創世記が語る天地創造や人間の創造の箇所をどう解釈すべきかが問い合わされたのです(1909年。デンジンガ―、『カトリック文書資料集』、3512〜3519)。

 その解答は今でも変わらない教会の教えです。天地万物の創世については、神が全てを無からお造りになったことと人間は特別に神の介入を受けて造られたことは信じるべきことだが、その表現のし方には比喩的なものがあり、文字通りとる必要はないということです。言い換えると、創世の物語はまったくのフィクションではない、つまり、宗教的教訓を教えるためにでっち上げた作り話ではないということです。

 では、どうしてもっと科学的な書き方をしなかったのでしょうか。この問題を考えるとき、まず聖書が科学の書物ではなく宗教の書物であることを理解せねばなりません。科学とは存在する物質の性質や構成などを考察するものですが、宗教は神と人間の救いについて教えるものです。例えば、聖パウロはスポーツが好きだったようで、その手紙にもときどき陸上競技や格闘技の例えが出てきます。しかし彼は宗教的な見地から、スポーツ選手が勝つために色々なことを我慢するとか、参加者の中で賞をもらうのは一人だというような教訓的な面を見ているのであった、どうすればより速く走れるかとかの技術の問題には興味を示していません。彼の関心は、第一に霊魂の救いでしたから。同じように創世記をまとめた著者(おそらくモーセ)は、人々にどのような科学的なプロセスでこの宇宙ができたのかを教えたいと思ったのではなく、神がいかにこの宇宙と人間に深い関係を持っておられるかを教えたかったのです。

 また、創世記が書かれたのは紀元前13世紀くらいで、それはそれよりさらにはるか昔から伝えられてきたことだということも忘れてはいけません。つまり、科学的な知識においては現代の幼稚園児のような人々(と言っても決して馬鹿だったわけではありません)に、ビッグバンやDNAやアミノ酸の話をしても、あくびをして寝てしまうのが関の山でしょう。それよりも、彼らに分かりやすくまた想像力を刺激する文体で、神の偉大な業を伝えようとしたモーセは天才と言わねばならないと思います。

 次回は、では聖書の創世の物語に含まれる宗教的の教えとは何かと見ていきましょう。もしできれば、『古事記』や『ギリシア神話』の開闢の初めの物語と、『創世記』の第一章を一緒に読んでいただきたいと思います。どの民族の神話も美しい文章で書かれていますが、読み比べることによってその内容において聖書の極めて特殊な性格がお分かりになるかと思います。こういうことは自分で納得しないと、こちらが力んで説明してむなしいことですから。


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