15)人間−2 |
カトリック教会は「人は霊魂と肉体から成る」と教えます。これに対して世間には、「霊魂などない。人間が高度な精神活動を見せるのは脳が発達しているからだ」(唯脳論)と言う意見が見られます。ただそうは言っても、精神科医の中で人間の脳だけを研究の対象にすることの限界を認め、「こころ」の問題に目を向けようとする人も珍しくないようです(1963年にノーベル医学賞を受賞したエックレス博士は霊魂の存在を主張する科学者です。その著作のいくらかは、『心は脳を超える』紀伊国屋書店などのように邦訳されています。) 霊魂とは、あってもなくてもどちらでも良いというものではありません。もし霊魂がなく人間が肉体だけならば、まず人の命はこの世に限られる。つまり、人が死ねば無に帰るということになります。また、人の幸せとは、肉体の幸せとなり、「精神的な豊かさ」とか言うものは幻想にすぎなくなります。ですから、社会も個人もひたすら物質的な豊かさを求めるべきだ、という結論がでてきます。 逆に霊魂があるならば、人間は死後も不滅の可能性が出てくる。そして、人間が物質的な楽しみだけで満足できないことも当然になってくるでしょう。イエス様はこのことをはっきりと宣言されました。「体を殺しても、魂を殺すことの出来ないものを恐れるな」(マテオ、10章、28)。また「天の国」や「永遠の命」ということも、魂の不死がないならば意味のないことになります。 ということで、霊魂の存在とそれが何であるかは、人生の目的を考える上できわめて重要な問題です。そこで今回はこの問題を考えてみましょう。 霊魂は物質ではありませんので、直接その存在を示すことは無理です。神の存在の証明と同じく、間接的にしか示すことはできません。さて、魂とは生物を生かしている原理だと定義されますので、動物や植物にも魂があるはずです。ただ、人間以外の生物は物質とは無関係の活動をしないことを見ると、その魂は完全な霊(非物質的な存在)ではないと言えます。これに対して、人間の場合、その様々な活動の中で、物質に頼らない活動がある。たとえば、自分を反省すること、善悪を判断すること、美や価値を認識すること、概念を考えることができること、などが挙げられます。 たとえば、美ということですが、動物も美しいものを見て引かれる(立派な羽を見せたり、きれいなさえずりを聞かせたりしてメスをひきつけるオスの鳥)こともあるようですが、「こころの美しさ」を理解する動物はいない。動物も食事をしますが、食べ物のおいしさや量とは直接関係のない、たとえば盛り付け、食器、テーブルクロスなどに気を配って、より食事を楽しくさせる動物はいません。動物にも住居を持っているものもありますが、雨露と寒暖をしのぐことと直接関係のない、内装や家具の心配をするものもいません。人間も肉体をもち動物と共通点がありますが、異なる点(上述のもの以外にもたくさんあります)にも注目すると、その異なり方の大きさに驚いてしまいます。この大きな違いはどこから来るのでしょうか。単に脳の発達段階の違いだけでは説明ができない、霊的な魂を人間が持つからという説明が最も納得のいくものだと思います(唯脳論者の人々は、なんとか脳を解明することで説明しようと努力しているわけですが)。 ところで、霊魂と肉体を比べると、上記のイエス様の教えのように、霊魂が肉体よりも大切であることは確かです。人間の場合、その人の価値は肉体の優秀性にではなく霊魂の美しさ、強さにあります。しかし、では肉体は軽視すべきものでしょうか。古代のギリシア人はそのように考えました。その影響を受けて、キリスト信者の中にも肉体は悪だと考えた人も出ました(彼らはイエス様の体は幻であったと考えた)が、教会は常に肉体も神によって造られたものであり善であると教えました。人間は肉体あってこそ人間なのです。 霊魂と肉体の関係は、運転手と車の関係のようなものではありません。霊魂と肉体は非常に密接に結びついているので互いに影響し合うのです。ですから、精神病と言っても肉体とまったく無関係ではない。肉体が疲れれば霊魂も元気を失う。霊的生活の向上のためにも、健康にもある程度気を配る必要があるのです。
とは言っても、肉体には細心の注意を払うが、霊魂の世話は疎かにしがちな人が多いのではないでしょうか。「心が美しい、醜い」とか言うように、霊魂にも美醜がありますが、体を美しく保つための運動、食事、化粧、衣服に気を配るのと同じように、霊魂を醜くする利己主義や罪を警戒すべきことが理解できる人は少ないのではないでしょうか。かつて、ソクラテスは自分を裁判にかけたアテネの市民に対し、彼らが金儲けなどのことばかり気にして、霊魂のことを気にかけないと非難しました。この警告の正しさは現代世界に住むキリスト信者なら、よく納得できるはずです。
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