16)人間−3

 聖書は人間が神の似姿に造られたと教えますが、「でも人間って神よりも動物の方に似ているのでは」と考える人もいるでしょう。事実、毎日の新聞やテレビで伝えられる事件を見ていたら、人間ってどうしようもない悪い奴だと思っても不思議ではありません。「人間とは、もし神の作品ならばそれは欠陥品だが、自然が作り上げたものとするなら傑作品だ」という言葉があるそうです。これは言いえて妙と思いませんか。聖書はその間の事情をよく説明しています。

 聖書に拠れば、最初の人間は今の人間とはかなり異なっていました。たとえば、「アダムとエバは「裸であったが恥ずかしくなかった」とあります。また、二人の堕罪の後に、女には生みの苦しみ、男には仕事の労苦などが罰として与えられましたが、これは堕罪の前にはそのような苦しみや男女の緊張関係はなかったことを示しています(『創世記』3章を参照。この章は非常にリアルです。一度ゆっくりお読みになることをお薦めします)。

 『創世記』が示す原始の状態と堕罪の物語(繰り返しますが、創世記の最初の3章はフィクションではありません)が何を意味するのかについては、新約時代の啓示に照らされて色々と明らかにされました。つまり、人祖の状態とは「成聖の恩寵」という超自然の賜物に満たされ、知性が体を完全に支配しており、苦しむことも死ぬこともないという自然外の賜物をもっていた、というふうにまとめました。しかし、これらの賜物を人祖は罪によって失い、さらに人祖の子孫全員は欠陥をもった人間の状態で生まれる、というのです。

 聖書によれば、この嘆かわしい結果を引き出すことになった罪とは、「禁じられていた善悪の木の実を食べたこと」でした。この個所を読むと、「なぜ神様はそんな掟を与えたのか。もし掟がなければ、人間は罪を犯すことがなかったのに」という思いが出てくるのではないでしょうか。 しかし、この掟はなければならなかったのです。というのは、人間が「神の似姿」に造られたということは、人間が知恵と意志をもつ自由な存在として造られたということを意味します。それは天使と同じように、人間も自由に神を愛することを神は望まれたからです。しかし、自由に愛することができるためには、自由に愛さない可能性も与えねばなりません。

 自由とは選択の能力(正確には、よりよい善を選択する能力)なのですから、自由であるためには複数の選択肢が与えられねばならない。たとえば、あなたが招待客として友人の家に行ったとして、そこで「何でもご自由にお食べください」と言われたけれど、「どんな料理があるかな」と見てみたところたこ焼きしかない。それなら、「自由に選べと言われても、たこ焼きしかない」と不平を言うでしょう。自由に食べるためには、少なくとも二品以上の食べ物が必要です。それと同様に、「自由に神様に従うように」と言われても、神様に逆らう機会が与えられなければ、本当に自由に神に従うことはできない。そこで、神様は人祖にひとつだけ簡単な掟を与えたわけです。

 この掟を守ることは造作のないことでした。彼らには食べ物はたくさんあり、一つの木の実を食べられなくても食料に困ることはなかった。それゆえに、その掟を破ったことは、一見するよりはるかに悪い行いなのです。それは弱さによる罪ではなく、自分たちが神に逆らうことをしているとはっきり知っていた上で行った、いわゆる確信犯なのです。

 次回は、この罪の正体とその結果についてお話ししたいと思います。


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