23)イエス・キリスト−4

 新約聖書には、四つの福音書に続いて『使徒言行録』が出てきます。これは第三福音書の著者ルカが書いたもので、福音書の続き、つまりイエスが昇天されてから使徒たちがどのようにその教えを伝えていったかを記録したものです。もっとも、使徒たちの中でその消息が詳しく伝えられるのは、ペトロとパウロだけです。

 この書物を読みますと、キリスト教が始まったばかりのとき、使徒たちの教えが明らかにされます。彼らがキリストを知らない人に最初に伝えたことは何でしょうか。それは「ナザレトのイエスは十字架上で死んだが、三日後に復活した。このお方によって罪のゆるしが与えられた」と言うことでした。つまり、まずキリストの生涯のエッセンスを説明したのです。言い換えれば、イエスの生涯の具体的なことではなく、結論から先に教えたのです。もちろん結論を教えた後で、イエスの人となりや教えについて説明したはずです。でないと弟子たちは満足しなかったでしょう。

 しかし、現在ならばイエスの言行を知るためには福音書を読めばいいわけですが、当時はまだ福音書が存在していませんでした。それならば、信者たちはどのようにしてイエスの生涯を知ったのですか。それは言うまでもないことですが、イエスと直接付き合った人々、すなわち目撃者から聞く以外に方法はありません。そして、目撃者の証言の方が、書き残された記録より迫力があったはずです。

 使徒たちが健在だった時代に福音書はまだ必要ではなく、いざとなれば十二使徒やその他の生き証人に聞けばよかったのです。しかし、福音が遠くの国々にも広められ、また生き証人が一人また一人と亡くなっていくにつれ、彼らの証言を書き残す必要が痛感されるようになったはずです。そこで、福音書が生まれたと考えられます。もちろん、十二使徒の時代から、あるいはイエスが生きている時代から、師の教えをメモの形で書きとめていた可能性は十分にあります。しかし、福音書が本の形にまとめられるのは、教会が生まれてから数十年後のことでした。

 つまり、教会の誕生直後、いわば文字の記録がない空白の時期、あるいは文字の記録に頼らなくてもよかった時期があり、その時期にはイエスの教えは口頭で伝えられたのです。この口頭で伝えられた教えを聖伝と言います。福音書は聖伝をまとめたものと言えます。ルカは福音書の冒頭に「私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が私たちに伝えてくれたとおりに、書き連ねようと・・」と書いているのは、まさにこのことです。

 たとえば、私たちが紀元50年頃のローマに住んでいたと想像してみましょう。そこにペトロというユダヤ人が来て、ナザレのイエスについて宣教を始めます。神の恩恵のおかげでその教えを信じるに至った私たちは、ペトロに「そのイエス様が何を教え、どういう生活をしたのか、もっと教えてください」と言うでしょう。ちょうど、驚くような体験をしたおじいさんに、孫たちが話を聞くように。そもそも、その話を全部書き留めることは不可能です。聖書の中に聖伝がすべて書き込まれたのではありません。ヨハネ福音書は次の言葉で締めくくられています。「イエスのなさったことは、この他にもまだたくさんある。私は思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」

 つまり、私たちがイエスの生涯と教えを知りたければ、福音書だけでなく聖伝に注意する必要があるということです。それでは聖伝はどこにあるのでしょうか。聖伝は大部分が福音書、使徒言行禄、使徒たちの書簡に記録されましたが、それ以外のものは使徒たちから後継者に伝えられました。それが教皇と司教からなる教会です。教会の教えは聖書と聖伝に基礎を置いているのです(より詳しくは第二バチカン公会議の「啓示憲章」を参考にして下さい)。

 ここ数回、福音書に表れるイエス・キリストは、目撃者が見た通り、聞いた通りに書き記したもので、初代の信者たちが、「こうあってほしい」と願いつつ創作したものではないと言ってきました。奇跡もせず、ましてや復活もしなかった人が、実は神の子であって、その証拠は彼が死後に復活したからだ、というでたらめな話が生まれるということが可能ならば、それは事件から遠くはなれたずっと後の時代のことになるでしょう(私はいくら時代が離れてもそのような荒唐無稽な話が信じられるようになるとは思いませんが)。

 ところが、使徒たちの教えを直接伝える『使徒言行禄』や使徒たちの書簡は、教会が始まった直後から(実際は教会の始まりと同時に)この信仰が存在していたことを示します。この不思議な事実は、教会が信じてきたこと、福音書に堂々と書いてあることは、歴史的に本当に起った出来事であった、と考える以外に説明のし様がありません。私たちが、毎週日曜日のごミサの中で唱える「信仰宣言」は二千年前の信者の信仰と寸分の違いもないものなのです。


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