38)教会−5(教える権能、2) |
前回から教会の教える義務(権能)について見ています。前回は教会が教えることは「信仰と道徳についてである」と言いました。しかし、教会は「新しい信仰」「新しい道徳」を知恵を絞って考え出すのではなく、「イエス様の教えられた信仰と道徳」(これを教会は福音と呼びました)を教えるのです。この点、パウロははっきり言っています。「私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエスキリストの啓示によって知らされたのです」(ガラテヤ、1章、11〜12)。 イエス様は紀元1世紀の人間です。それゆえ教会の教えは、今から2000年前に始まったものです。言い換えると、すごく古い教えです。現代、なんでも「新しいもの」がもてはやされる風潮がありますが、「進歩するもの」についてはそう言えるかもしれまんが、世の中には「変わらないもの」もあるのです。たとえば、数学。ピタゴラスの定理はギリシア時代に発見されたものですが、現代でも変わりませんよね。「こんな古い式は現代には役に立たん」と言う人はないでしょう。真理が真理たる所以は、普遍的、すなわち時間と場所を超越する点にあります。信仰と道徳もまた同じ。神と人との関係、人間と人間との関係は、石器時代も21世紀も変わらないからです。古代ギリシアの文献に、「近頃の若者は」と言って嘆いている大人の愚痴が記録されていますが、それを読めば人間が今も昔もまったく変わっていないことが納得できるでしょう。 それゆえ、ローマ時代の教会も現代の教会も、教えていることは基本的に同じです。第二次大戦後、日本では教育方針ががらりと変わり、学校では今まで「鬼畜米英」と教えていた先生が戦前の日本を「軍国主義」として一刀両断にするのを見て、疑問をもった子供たちの話を読んだことがあります(この豹変は教師だけでなく、新聞なども同じだったそうです。現在リベラルで通っている新聞が戦前では和平を模索していた政治家たちを弱腰外交と言って非難していたのですから)。逆に、同じ時期にカトリックの女学校で学び、シスターたちの教えることが戦前と戦後で変わらないのを見て信者になった女子学生の話もあります。これはカトリック教会が「いつもどこでも」イエス様の教えを伝えている結果です。 それでは、教会はキリストの教えを鸚鵡のように20世紀の間、繰り返してきただけなのか、と言うともちろんそうではありません。教会は、神の啓示(以前見たように、聖書と聖伝に含まれる)について理解を深めるために絶えず反芻し、必要ならばより正確でわかりやすい説明の仕方を考えます。こうやって信仰の理解を深めるのです。これが神学の営みです。たとえば、マリア様が救いの歴史の中で果たされた役割、恩寵と自由の関係、秘蹟の意味などについては、初代教会よりも、現在の方がずっと深く理解されています(これについては、第二バチカン公会議の『啓示憲章』を参照してください)。 あるいは道徳において、たとえばクローン問題や体外受精の問題のように技術の進歩によって新たに生まれた道徳上の問題があります。しかしこれらの問題も、モーセの十戒に示された原理を研究していくことによって、解決できるのです。なぜかと言うと、結局道徳の問題は、神の似姿として創られた人間の権利と義務の問題だからで、いかに人間を取り巻く環境が変化しても、変わらない質の問題だからです。 他方、教会の教えることのなかには、制度やミサのやり方(典礼)などのように、時代の流れの中で変化するものもあります。イエス様が直接定められたことでなければ、教会が状況に応じて変えることが出来る事柄があります。たとえば、司教、司祭、助祭という品級はイエス様と使徒たちが決めたものですから、もうこれを変えることができません。しかし、その後生まれた枢機卿、大司教などの職務や副助祭などの聖職者の品級などは、もし教会が不必要と考えたり、もっと適したものがあると考えたりしたならば、変更を加えることができます。しかし、それらは信仰と道徳とは直接関係のない(だからと言って、どうでもよいことではありませんが)副次的なことです。
人の道、人を幸せに導く道に関しては、教会の教えは変わりません。多くの政治家と違って、世間が何を言うかを気にして、風見鶏のように意見を変えることはありません。ユダヤ人にキリストを伝えることを禁じられたペトロは、「人間に従うよりも、神に従わねばなりません」と言いました(『使徒言行録』、5章、29)。教会が世間から攻撃されるわけもここにあります。世間に迎合しないことに。私たちはもっと教会の教えに自信を持つべきだと思いますが、そのためもそれをよく知って納得することが大切かと思います。
(注、ここで言う教会の教えとは、当然「教会が公に教えている教え」です。それを教導職の教えと言います)。
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