39)教会−6(教える権能、3) |
また大きな会社の不祥事が明るみに出ました。昨今マスコミをにぎわす不祥事は、単に失敗したということではなく、人の道(道徳)を平気で無視していたと言う点にあります。もし何か技術的な失敗であるならば、それを犯した人の力量が疑われますが「悪人」とは呼ばれません。ところが道徳に反した場合には、その人は人として失格の烙印を押され、社会で普通のの待遇を受けることができなくなるのです。こういうことを考えると、人間の最大の不幸は善悪の判断を誤ることだということがわかるでしょう。実は、道徳的な判断の正誤は、単に社会生活において大変な結果を生じせしめるだけでなく、その人の幸せ、そして永遠の命を左右すると言う意味できわめて重要な問題なのです。この道徳と密接な関係にあるのが信仰です。 実に教会が教えることは、この信仰と道徳についてです。この二つの点は、今言った理由で間違いが許されないものです。そこで、わざわざ神が旧約時代は預言者を通じて、新約時代には御子を通じてお教えになりました。しかし、イエス様はご自分ではこの仕事を完成されずに、弟子たち(教会)に世の終わりまで全人類にこの教えを伝えることをお任せになりました。しかし、人間ならば間違えることを避けることはできません。イエス様がこの重要な使命を教会に任せたときに、教会が「信仰と道徳」について教えるとき間違うことがないように特別の約束をされました。「世の終わりまで、いつも私はあなたたちと共にいる」と(マタイ、28章、20)。問題を解いてる生徒の後ろにそっといて、生徒が間違えかけたら直そうと待ち構えている先生のようですね。 これを不可謬性の賜物と言います。これは神様のみが持っておられる能力ですが、それをイエス様はご自分の体である教会にお分けになったとも考えられます。しかし、どのようなときにこの特能が発揮されるのか。それは次のような場合です。@全世界の司教がローマ教皇と一致して教えるとき(これは特に公会議の場で現れます)。A教皇が単独でも、「教皇の資格をもって、全教会のために、信仰と道徳に関する教義を決定するとき」に。このAを教皇座宣言と言います。このAが宣言されたのは第一バチカン公会議(1870年)ですが、もちろん昔からこの信仰がありました。(詳しくは、第二バチカン公会議の『教会憲章』18〜25をお読みください)。
しかし、このようなケースは稀にしかないことです。公会議は100年に一度くらいの割合でしか行われませんし、教皇座宣言もここ200年で二度だけ(1854年のピオ9世による聖母の「無原罪の御宿り」の宣言。この3年後ルルドに聖母が出現され、この宣言の正しさを保証されました:1950年のピオ12世による「聖母の被昇天」の宣言)です。そこで、私たちがより注目すべきは、教皇様や、ペトロの後継者と一致して全世界の司教が、通常の教導職によって、啓示をよりよく理解させるための信仰・道徳に関することで示される教えです。最近特に強調されている教えには、命は受精から死の瞬間まで尊ばれるべきこと、家族の権利を国家は守る義務のあること、教育の権利は両親が持つこと、といった道徳の問題から、教会一致運動、ロザリオやご聖体の信心、主日のミサと赦しの秘蹟の大切さなど信仰生活に関する教えなどがあります。これらの教えに対して信者は「ローマ教皇の真正なる教導職に対しては、格別の理由で、たとえ教皇座宣言でないときにも、意志と理性のこの敬謙な従順を現さねばならない」と(『教会憲章』、25)。カトリック中央協議会から出ている、教皇様たちの回勅、使徒的書簡などの文書を、少なくてもその題名を見れば、教会が一体どういうことを伝えようとしているのかがわかります。また今年ご聖体の信心を深めようと努めるなら、少しでもこの敬謙な従順を実行していることになるでしょう。
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