43)神の恩恵−1

 日本の鎌倉仏教には大きく分けて他力本願の宗派と、自力本願の宗派に分けられると中学や高校の日本史の教科書は教えています。その教科書によれば、他力本願とは救いを得るためには人間の力ではどうしようもないので、仏様(阿弥陀仏)に願うしかないという教えで、自力本願とは人間の修行によって悟りに至ることができるという考えだそうです。それでは、キリスト教は自力本願なのでしょうか、他力本願なのでしょうか。

 まずキリスト教で「救い」とは何を意味するかを復習しておきましょう。 聖書には、神は最初人間を特別に恵まれた状態におつくりになったが、人間が神に従うことを拒んだためにその状態を失ってしまった、とあります。

 特別に恵まれた状態とは、一言で言うと恩恵の状態にあったということですが、恩恵は目に見えないので分かりやすくするために、それをお金にたとえてみましょう。

 卑近な例になりますが、自分には何の功徳もないのに、いきなり何百億円を与えられた人が「ふん、こんなもの」と言ってお金をどぶに捨てたと考えてください。これは全くその人の落ち度ですから、彼の方からお金の与え主にもう一度あのお金を返して下さいとは言える義理はありません。しかし、このお金の与え主である神は人間とは違って無限に寛大なお方で、人間を赦しもう一度やり直させる計画を持っておられました。その計画と言うのは、神の第二のペルソナが人間になって彼が全人類に代わって自分の命を捧げることによって父なる神に赦しを乞うというものでした。この結果、人間は最初に失ったものを取り戻すことができたのです。

 ただし、これによって、イエス様は人祖がどぶに捨てたお金をそのまま私たち全員に返してくれたのではありません。主は私たち一人一人にお金を直接渡す代わりに、銀行にそのお金を積み立ててくださったといえます。人祖を創造されたときはその無限のお金を一方的にお与えになりましたが、今度は私たち側でも少し協力するようにされたのです。つまり、少なくとも銀行に行って預金をおろすという手間は省いて下さらなかったわけです。

 ここで再び最初の質問に戻りましょう。キリスト教は他力本願か自力本願か。上の説明では、どぶに捨てたお金を取り戻すことは人間の力を超えているという意味で他力本願ですが、イエス様が銀行に預けてくださった預金を引き出しに行くのは私たちの責任だという点で完全な他力本願ではないといえます。しかし、問題は予想以上に複雑なのです。イエス様の「私を離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ、15章、5)とか、「父が引き寄せて下さらなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(同、6章、44)とか言われた言葉を思い出してください。これらの言葉は、もし私たちが銀行に行って預金をおろして神様の救いの業に協力できたとしても、実はそのよい行いは私たちの力だけでできたのではなく、神様の助けを得てできたのだということを意味します。それに気づかない私たちは、ちょうど初めて自転車に乗った子供が、後ろで親が自転車を支えてくれていることに気づかず、自分は一人で自転車を動かしていると思っているようなものかもしれません。

 上に言いましたように預金は恩恵のことです。この預金の引き出しを可能にする手段が秘蹟です。秘蹟については、また後でゆっくりと説明する機会がありますので、今回から数回にわたって恩恵(恩寵)とは何かを取り上げたいと思います。人間にとって救いとは自分の罪を赦され神と和解することになります。この恩恵の問題は、救いの問題と直接関係のある重要な問題です。ただし、この世では常に再び罪の状態に陥る(恩恵を失う)可能性があるので、真の救いは天国でしか与えられないことは確かです。


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