44)神の恩恵−2

 人間は自力で救いに至ることはできない。ただ、神の助けによる、と前回言いました。この神の助けが恩恵にほかなりません。恩恵とは、日本語では恩寵、聖寵、恵みとも言いますが、ラテン語のgratia(グラチア)の訳です。有名な明知光秀の娘ガラシア夫人の名前もここから来ます。この言葉は「ただで与えられる贈り物」を意味します。

 とは言え、よく考えてみると、私たちはすべてを神様からただで与えられています。命、体、才能、家族などなど私たちの持っているもので、自分で自分に与えたものは何一つありません。しかし、正確に言えば、これらのものは神の恩恵とは呼ばれません。実は私たちの生きている世界には、「自然のレベル」の上に「超自然のレベル」があるのです。これはキリストの啓示によって初めてわかった真理、キリスト教に独特の真理です。

 自然とは、生まれたまま加工されていない状態ということができるでしょう(“nature”とは「生まれた」を意味する“natus”というラテン語から来る)。人間は、自然の能力を備えた体と霊魂をもって生まれてきます。そして、この生まれたときに与えられていた能力を使って、自分の目的に達しよう(人格の完成を目指そう)と生きる、これが自然のレベルの人生です。キリスト教以外の宗教や哲学思想の中にも、この自然的なレベルで人はいかに生きるべきかについて貴重な教えを示しているものもあります。

 ところが神様は、人間にはこの自然のレベルの上に超自然のレベルがあることを啓示されました。つまり、超自然の目的があるのです。自然レベルの人間の目的が人格の完成であるとすれば、超自然レベルの目的は永遠の命です。人格を完成するとは、神を知り神を愛することなのですが、自然レベルではその神は唯一の神にとどまります。それに対して超自然レベルの人間の目的は、三位一体の神を知り愛すこと(実はこれが天国の至福なのです)と言えます。

 さて、人間は自然のレベルに留まる限り、超自然の現実があることすら知りえません。それゆえに、当然超自然の目的に達することは不可能です。知らない目的地に行くことは不可能ですから。

 実は神は最初の人間をお造りになったとき、いきなり彼らを超自然のレベルに上げてお造りになりました。ところが人祖はその恵みを捨ててしまったので、人祖の子孫は傷ついた本性をもって、純然たる自然の状態で生きることになったのです。神はこの状態を哀れに思われ、御子イエスを送られ十字架の死と復活によって、再び超自然のレベルをお与えになろうとされたのです。言い方を変えると、恩恵を与えようとされたのです。

 ですから、恩恵とは「ただで与えられる超自然の贈り物」と言わねばなりません。「ただで」とは、人間の側には何の功徳もないのに、神が与えてくださるからです。つまり、恩恵の源泉は神以外にないのですが、父なる神はイエス様が私たちの身代わりになって受けてくださった十字架の受難を考慮に入れて、何もしなかった私たちに恩恵をお与えになるのです。とは言え、今度は人間がポカンと口を空けていたら、神が食べ物を口に入れてくれるというような仕方ではありません。人の方からも食べ物の方に歩いて行くよう要求されます。このことはいずれ秘跡の個所でお話しましょう。

 今回お話した自然のレベルと超自然のレベルの区別は極めて重要で、これを曖昧にすると。キリスト教は単なる有益な思想になってしまいます。ただ、この区別は厳然たる事実にせよ、その二つのレベルは水と油のように対立するものではありません。聖トマス・アクィナスの有名な言葉によれば、「超自然は自然を破壊するのではなく、引き上げる」のです。つまり、自然は超自然の建物の土台だと言えましょう。ですから、よいキリスト信者になる(超自然のレベル)ためには、まずよい人間になる(自然のレベル)ことが絶対に必要なのです。よく祈り、ごミサに与るのと同時に(あるいはその前に)、ちゃんとした人間(勤勉でやさしく、協調心があり、人の悪口は言わないなど)になる必要があるわけです。また「良いカトリック信者であることと、忠実に社会に使えることとの間に対立があると言うのは事実に反する」(聖ホセマリア、『拓』、301)と言うように、信者はよい市民として社会に貢献しようと望むべきです。逆に言うと、信者ではないが人格者である人は、もしキリスト者になれば、立派な信者になることができるとも言えます。

 恩恵が超自然レベルということは、恩恵によって人は超自然の能力を発揮することができるということになります。しかし、実は恩恵には二種類あるのです。このことについては次回に詳しく見たいと思います。


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