45)神の恩恵−3

 前回、自然レベルの他に超自然レベルというものがあることを見て、恩恵とは超自然の贈り物だと言いました。そこで恩恵を定義してみると、「神が人の救いのために、イエス・キリストの功徳によって、お与えになる超自然のめぐみ」ということになります。それでは、この恩恵は聖書ではどのように現れているのかを見てみましょう。

 聖書には「恩恵」という言葉が直接使われていなくても、神の助けを表す個所があります。たとえば、「父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(『ヨハネ』、6章、44)とはイエス様の言葉です。または「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神です」(『フィリピ』、2章、13)というパウロの言葉。これらは人がよい行いをできるように助ける恩恵のことだと言えるでしょう。あるいは、パウロがフィリピという町の川のほとりで説教したとき、それを聞いていたリデイァという婦人は「主が彼女の心を開かれたので」、彼女は一家揃って洗礼を受けたという話もあります(『使徒言行録』、16章、14)。リディアは恩恵に動かされて神を信じたというわけです。

 これらによって、神を信じることや神の気に入られる行いをするには、恩恵が必要であることがわかります。これらの恩恵は、人間が超自然的に良い行いができるように神が一時的にお与えになる助けです。これを「助力の恩恵」と呼びます。人間は自然的な行いをするにあたっても実は神の助けを必要(神に存在を支えてもらい、動かしてもらう必要がある)なのですから、ましてや超自然的に働くために特別の恩恵がいることは当然でしょう。

 助力の恩恵は、信者ではない人にも与えられます。でなければ、「だれもキリストのもとには行くことができない」ので。神は「すべての人の救いをお望み」(『テモテ後、2章、4』)ですから、全ての人に助力の恩恵をお与えになるはずです。「神の御助けを祈り求めましょう」というとき、助力の恩恵を指しているのです。

 ここで大きな難問にぶつかります。それは助力の恩恵と人間の自由との関係です。例えば、ある人の頭に「これからはもっと人のために生きよう」という良い考えが浮かんだとしましょう。それは今見たように、助力の恩恵のおかげです。でも次の段階で、その人はその良い考えを実行に移す場合と、その考えを無視し何もしない場合があるでしょう。なぜその違いが起るのでしょうか。よい考えを実行に移すという行為も、結局は恩恵の助けを受けています。しかし、よい考えを無視した場合はどういうことが起ったのでしょうか。少ししか恩恵しか与えられなかったからでしょうか。

 実は、この問題は最終的には奥義(ミステリー:人間知性を超えているが、神が啓示されたという理由で信じる真理)です。ただ、確かに言えることは、恩恵を断る、あるいは恩恵の勧めに逆らう場合、それは人間の自由意志によってなされた決断で、神がそうさせたというのではないということです。神は、人間の自由を尊重されます。逆に恩恵の勧めに従った場合、なるほどその行為も別の助力の恩恵に助けられたものですが、その人の協力があったことは確かで、その人は功徳を積むことになります。

 歴史的には、この問題がルターとカトリックの根本的な教義面での対立点でした。ルターは、人間は原罪によって芯まで堕落したので、良いことは何一つ出来ない。ただ、キリストが私を救ってくれると信じるだけで救われる、と主張します。簡単に言うと、助力の恩恵がすべてであって、人間の協力はゼロであるということです。でも、もし人間が良い行いをできないなら、福音書でしばしば見られる励まし、例えば「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエスキリストを身にまといなさい」(『ローマ』、13章、13)というような言葉は無意味でしょう。「そんなこと言われたかて、どうせ何もええことなんかできへんのやろ」と反抗されるのが関の山でしょうから。これに対し、カトリックは、確かに人間は原罪の結果として悪に傾くようになったが、まだ善を行なう力は残っている。ただ、それも神の恩恵の助けを受けてできることであると言うわけです。ですから、謙遜に神の助けを頼みながら、日々平凡な生活の中で奮闘努力を続けねばならないということです。

 さて、助力の恩恵に対して、もう一種類の恩恵があります。それは「成聖の恩恵」と呼ばれるものですが、それについては次回に回したいと思います。


44に戻る   46に進む
目次に戻る