48)罪−2

 最近、世間を騙して金儲けをしていたケースが次から次へと発覚しました。これらの事件の論評を読むと、必ずと言っていいほど「モラル」の欠如を嘆いています。これは面白いと思いませんか。と言うのは、マスコミや世論自体がモラルに反することを必要悪として許容しているのではないでしょうか。またよく「モラルなんて人間社会が作ったもので、時代や場所によって変化する」と言っていたのではないでしょうか。

 最近話題になっている本に、「正論を述べる人は嫌われる、と言うのは世の中は正論では食っていけないからだ」というようなことが書いてあるそうです。そう言われると反論するのに勇気がいりますよね。でも、例の建築士さんは、「偽装を断れば仕事が取れなくなる」と証言していました。これは正論を嫌う人にとって、「生活のためには許されること」なのですよね。それならば、もっと弁護してあげてもええんとちゃうと思ってしまいます。

 「世の中はどろどろしとるもんや。せやから『罪を避けよ』なんて言うとったら、生きていけへんで」とは時々子供でも言うせりふです。けれど、聖書も教会も「罪は避けなければならない」と言って一歩も譲りません。というより譲れないのです。もし「教会は実現不可能な理想を言うとる」と言うなら、耐震強度が基準の半分のマンションを買った人に、「仕様がないからあきらめなさい。彼らも生活のために仕方がなかったのですから」と言ってください。確かにこの世の中で罪を避けるのは時には英雄的な努力がいるにしても、それを許容したらひどい世の中になってしまう、ということをちょうど今の日本が示してくれているようです。

 しかし、罪を避けるのは「他人様に迷惑をかけないため」だけではありません。実は罪はそれを犯す本人にも害を、それも多大の害を及ぼすのです。これが「罪こそ恐れるべき唯一の悪である」ということの三つ目の理由です。

 このことは、神の掟は何のためかを考えるとわかります。つまり、神の掟は人間に堅苦しい生活を迫るためのものではなく、人間を完成させる(よりよい人間になる)ための道しるべであるという点です。だから平気でこのおきてを破る人、つまり罪を犯すことに平気な人は目的地に行けないだけでなく、自分をも堕落した人間にしてしまうのです。そういう人が、実際どんな人かを想像すればわかります。イエス様が言われた罪のリスト、つまり「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢」(マルコ、7章、21-22)などの行為をして平気な人が魅力的な人でしょうか。そういうことに専念する人を見て感動するでしょうか。

 以前言った事ですが、人間の行為の中には自由にするものとそうでないものがあります。自由にする行為は、良い行為か悪い行為になり、それらは終われば消えてしまうのではなく、私たち自身に跡を残すのです。例えば、繰り返し嘘をつく人は「うそつき」になり、逆に本当のことを言う人は「正直もの」になる。義務を怠けて果たさない人は「怠け者」になり、楽をしたい心に打ち勝って義務を果たす人は、「勤勉な者」になるのです。

 ところで、この世での人間の目標は何でしょうか。戦後、教育基本法の準備委員会で働いたカトリック信者の田中耕太郎氏は「教育の目的は人格の完成と真理の追究」と提案しましたが、この定義は「真理なんてあるんか」と疑う人たちから拒否されてしまったそうです。でも氏の定義が正しいことは現在の日本を見たらうなずけるのではないでしょうか。「人格の完成」をなおざりにした教育の結果を私たちは目の当たりにしていますから。ともかく、人格の完成とは、簡単に言えば「よい人になる」ことと言えます。罪とは、よい人にならない行為、言い換えれば「人の道を踏み外した行為」となります。「みだらな思い、盗み、殺意、姦淫、貪欲などなど」は人らしくない行為なのです。ということは、そういう行為をする人は、人として「壊れていく」、「人でなし」になって行くわけです。はっきり言えば、動物のようになることです。人が人でなければ、どうやって幸せになることができるでしょうか。罪を繰り返し犯すことによって「罪人」になるわけですが(もちろん、我々みんな罪人なのですが、罪と戦っているなら、事情は少し違って来ます)、それは周囲だけでなく自分をもダメにしてしまうことなのです。

 ただ、罪にも色んな種類があります。次回は、その点を見てみたいと思います。


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