49)罪−3(思いの罪) |
これまで二度にわたって「罪こそ唯一恐れるべき悪である」ことを見てきました。今回から「罪にも色々ある」ことに目を向けたいと思います。 ごミサの最初に罪の赦しを願う祈りがありますが、そこで「思い、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」と言うふうに罪を三つに分類しています。その中で今日取り上げたいのは「思いの罪」です。 実は、「思いの罪」は普通考えられている以上にひどいものなのです。イエス様のあの非常に厳しい注意を覚えておられると思います。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」(マタイ、5章、27~28)。あるいは、「殺すな」という掟は、他人に腹を立てることも禁じているのだ、と(同上、21~26)。 世間には「他人に迷惑をかけさえしなければ、何をしてもええやろ」という考えが広くあるようです。そのような考えなら、思いの罪は存在しません。「女の人を不潔な思いをもって見ても、その人に何か迷惑をかけることにはならんやろ」とか「誰かに腹を立てても、その人の体は何も傷つかんがな」と言うわけです。でもそうでしょか。 人の行いは、心の「思い」から生まれます。まず「ラーメンを食べよう」という思いがあり、それからラーメンを食べるのです。何も考えずに、いきなりラーメンを食べる人はいません。「思い」と「行い」の関係をたとえるなら、行いは地上に現れている木や草で、「思い」は地下に隠れている根になります。「思い」は人間の一番根っこのようなところで、そこが腐っておれば、人間全体も腐っていると言えるでしょう。表面的には何も悪いことをしないけど、心ではいつも不潔なことや他人を侮辱することを考えて、こっそり喜んでいる人がいるならば、不気味を通り越して「いやな奴や」と感じてしまうのではないでしょうか。人間の行いとは外に現れるものだけでなく、心の動きも立派な行いです。だから、心で姦通するだけでも人は姦通者になり、心で殺人をするだけでもその人は殺人者になるのです。 ここで重大な区別があります。以前、「罪とは、知りながら神の掟に背くこと」と定義したのを覚えておられますか。非常に大切なことは「知りながら」という点です。心の中に何かの思いが浮かぶプロセスに二つあります。一つは、自分でわざとあることを考えようとする場合。もう一つは、自分は望まないのに、自然にある思いが浮かぶ場合です。前者は、自ら進んであることを考えるわけで、「知りながら」に当たりますが、後者はそうではありません。だから、「自然に浮かぶ思い」は、たとえ悪い思いであっても罪ではないのです。だから、ふっと悪い考えが浮かんでも心配しないで下さい。ただし、その思いが浮かんでから、「これは楽しいから、この思いを楽しんでやろう」としたら、そのときに罪を犯します。 そこで、大切なことは、「思いをコントロールする」ということです。私たちは普通何かを口に出すときは、それを言うべきかどうかを考えてから、言ったり黙ったりします。それは何かを言うと、それが他人にも聞こえて自分の言ったことが知られてしまうからです。それに反して、「思い」の場合は、何を考えているのかは外からはわかりません(ただ、神様はよくご存じです)。そこで、私たちは自分が何を考えているかには無頓着になる傾向があります。ところが、イエス様も言われたように、「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは心から出る。これが人を汚す」(マタイ、15章、19~20)。だから、心の中に悪い思いがはびこらないように見張る必要があるのです。畑で花や野菜を作っている人は、畑に雑草が生え出てこないように見張っているのではありませんか。それと同じことです。 最期にもう一つ考えて頂きたいことですが、人の思いというものは、外からの刺激に影響を受けるということです。先ほどは、思いが根で行いが草や木だと言いましたが、地上の葉っぱから光を受けて光合成を行い根にデンプンを送る(と、むかし習いましたが、もし間違っていたら教えて下さい)ように、行いが思いに影響することもあります。たとえば、下劣な例ですが、性犯罪で逮捕された人の自宅には、どういうものがいっぱいあるかは常識があるならすぐに察知がつくでしょう。つまり、普段から眼などの五感に注意することが重要なのです。五感から、いろいろな情報が頭に入りますが、その情報の中で「人を悪い行為に向かわせるようなもの」があるなら、それを中に入れないことです。これはちょうど港や空港に「検疫所」が配置され、そこで外国から入って来るものに悪いバイ菌やウイルスがないかどうか調べ、もし見つかれば中に入れないのと似ています。
それよりも積極的な態度は、頭と心を良いことでいっぱいにしておくことです。家族のことを考える親は仕事場でよく働くでしょう。勉強やクラブや趣味などのことをしばしば考えている若者なら、非行に流れることは少ないでしょう。「小人閑居して不善を為す」とは実に至言ですね。(もっとも、健全なことに夢中になれるためには、健全な家庭で育つことが大切でしょう。親の愛を知らずに育った若者が非行に走ったとしても、その非は大部分両親と社会が負うべきだと思います)。
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