53)死−2

 死ぬとは、人間の霊魂が肉体から離れることを言います。霊魂がどの瞬間に肉体を決定的に離れるか、は教会の判断することではなく、科学に任せられています。

 問題は霊魂が一度からだから離れてしまえば、二度と元には戻らないということです。世に言う輪廻転生はありません。もし輪廻ということがあるならば、私たちは生まれてくる前に何であったか(坂本龍馬だったのか、山之内豊信の妻だったのか)、何らかの記憶をもっているはずです。でも、そんな記憶を持っている人はないでしょう。「いや、私たちは死ぬと、ちょうどフロッピーかなにかのように全部記憶を消されて、また新しくなる」のならば、新しい生は以前のとはまったく異なるものになる。つまり、前に生きていた人は無に帰したと言えるでしょう。もし輪廻が本当ならば、「人生は何度でもやり直しがきく」ことになります。となると、人生の値打ちは安っぽいものになる。工場で大量生産された靴(でも何でも良いのですが)より、職人さんが作ったこの世で一つしかない靴の方がすっと値打ちがある。人生は一度きりだからこそ、そこに何か崇高なもの、犯すべからざる神聖なものがあるのではないでしょうか。

 聖書はその点、極めて明快です。「人間はただ一度死ぬことが定まっています」(ヘブライ、9章27)とはっきり宣言されています。ただ、死者の霊魂は生き続けています。死者が木や虫や動物になって遺族の傍に帰ってくるという思いは、全面的に否定されるものではありません。

 しかし、では人は死んだ後、どうなるのでしょうか。この問題に興味がない人はおそらくいないでしょう。この問題は興味津々ばかりでなく、この上なく重要です。しかし、宗教を教えない学校では教えてくれません。この問題は科学では解けず、宗教の問題だからです。

 ただ、科学的にこの問題にアプローチを試みる人たちはいます。そのやり方は臨死体験というものを調べることです。つまり、死の一歩手前まで行って、そこから意識を取り戻した人の体験を調べるのです。何かお花畑のようなところを歩いて行くとか、前方にトンネルが見えて、その中に入っていこうとしたら後ろから呼び止められて入らなかった、とか、そんな証言があるらしい。でもいずれにしても、臨死体験は、あくまで臨死であって、死んだ後のことを教えてくれません。

 と言うのは、死んでから生き返ってこの世に戻って「死後の生活はこんなんやった」と教えてくれる人がいなければ、わからないからです。人間なら、「死後はどうなると思う」と尋ねられれば、「うーん」とうなって「こうとちゃうか、ああとちゃうか」と推論を述べる以上のことはできません。にもかかわらず、イエス・キリストは、この問題を爪の先ほども迷うことなく答えています。なぜか。イエス様が神様で、死後の世界を知っておられるからです。(カトリック信者を対象としている以上、こんなことは書くまでもないのですが、はっきりさせることは良いことかと思います)。

 旧約聖書にも死後のことが出てきますが、新約ほど明白ではありません。旧約時代の初期には死者は善人悪人の区別なく、みんな「先祖の元に行った」とあります。しかし、時代が下ると、善人と悪人の死後の運命は異なることが出てきます(『知恵の書』、5章参照)。これは神の啓示が段階を踏んでなされたからです。以前も言いましたように、ちょうど青少年の教育にカリキュラムがあって、教える内容は初めのうちは簡単なものから始めて徐々に難しいものを教えていくように、神様はユダヤ民族に段階的に教えられたからです。その啓示の完成がイエス様の教えです。その教えを深めてまとめるのが教会です。死後の出来事についてのイエス様の啓示、教会がまとめた教えは、人が死ぬ瞬間(霊魂が体から離れた瞬間)に私的な審判がある。そこで、即座にその霊魂が天国か煉獄か地獄に行く。煉獄に行った霊魂はいずれ天国に行くが、地獄に行った霊魂は永遠にそこに留まる。人類の歴史には終わりがあり、そのとき全人類の審判(公審判)があり、その後は天国と地獄しか残らない、というものです。次回から、これらの問題を個別に見ていきましょう。


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