55)地獄−1

 数年前の話しですが、ある新聞記者がラッツィンガー枢機卿(現教皇ベネディクト16世)とインタビューをしました。その人は信者ではなくカトリックに対して偏見を持っていました。数時間のインタビューをして、枢機卿が明晰な知性だけでなく優しく親切な人柄であると知り、目からウロコの思いでした。そして新聞社に帰り、枢機卿を撮った写真を編集長に見せると、『優しそうな顔の枢機卿の写真はよくない。怒っている顔か悩んでいる顔の写真にしなさい』と言われたので、枢機卿はそんな人ではなくまったく逆です、と答えたが、聞き入れられなかったという話しです。この世は嘘で一杯と言えますね。決して人をだますことのない神様の教えを絶えず念頭に置き、冷静な観察力と健全な常識を持つよう努めましょう。

 さて、前回の続きです。私審判の後、魂はすぐに判決を受けます。魂の行き先は天国か煉獄か地獄です。「大罪を犯したまま死ぬことは、・・永遠に神から離れることを意味します」(『カトリック教会のカテキズム』。1033)。この永遠に神から離れた状態を「地獄」と言います。それはどのような状態なのでしょうか。

 聖書には「燃えさかる炉」(マタイ、13,41)とか「永遠の火」(マタイ、25,41)というような言葉がありますが、地獄とはどんなものかそれほど生々しい描写はありません。神様は人間の救いに必要なことは全部啓示され、その啓示は聖書と聖伝に見られます。これを公の啓示と言います。しかし、これ以外に神様はある人々に私的に啓示されることもあります。この私的啓示が正しいのかどうかは教会が判断します。正しい私的啓示は、当然公の啓示と教会の教えに即しており、それらをより詳しく示すことがあります。あの世については、こういう私的啓示が参考になることがあります。ただ、私的啓示は信じる義務はありません。

 たとえば、1917年ポルトガルのファチマという村でマリア様が何度か三人の村の子供に出現されましたが、一番年上であったルシア(後にシスターになり、数年前に帰天)に地獄を見せられたようです。シスターはこう証言しています。「聖母は・・両手をお開きになりました。すると左右の手から不思議な光線が流れ出て大地に浸透したかと思われました。それと同時に、広い大きな火の海が見えました。そこには、人間の形をした悪魔と悪人の霊魂とが、かんかんにおこり立った炭のように真っ赤に焼け真っ黒に焦げて、火の海に溺れ、もだえ苦しんでいました。たちまち起こったものすごい大鳴動とともに吹き上がった火焔のために、それらは空中高く吹き飛ばされ、大火災の火の粉のように重心もなく平均を失って、ぐるぐると回転しつつ、苦悩と絶望とに怒りわめきほえ狂いながら、無惨にも再び火の海に落ち込んで行きました・・」(『ファチマの牧童』、88頁)。

 16世紀の偉大な聖人で教会博士であるアビラの聖テレジアはこう書いています。「入り口は非常に長くて狭い小路か、または極めて低く暗く、狭いかまどのようでもありました。底はたいへん不潔で、臭くて、毒のある爬虫類のいっぱいいる泥水のようでした。その果に寝床の間の形に掘られた凹みがあり、私はたいへん窮屈な思いをしながら、そこに入れられていました。しかし、こういうながめは、私がそのとき感じたことに比べれば、むしろ快いものでした。決して誇張ではありません。

 ここで私が感じたことは、ほんのわずかでもそれを想像させることはできませんし、人は決してそれを理解できないでしょう。私は霊魂内に、(略)ある火を感じました。そして私の肉体は耐え難い苦痛を経験していました。私は生涯中、ずいぶんひどい苦しみを忍んだことがあり、ある医者の言うところによれば、それはこの世の人が悩まされうるかぎりの最大の苦しみです。(略)しかし、そういうことはみな、私がここで苦しんだことに比べれば何でもありませんでした。その上、この苦しみは終わりもなく、和らぎもないはずだということがわかりますので、なおさらのことです。

 とはいえ、こういうすべての苦しみも、霊魂の死苦に比べれば、まだなんでもありません。霊魂は、圧迫、もだえ、あまりにも激しい悲しみ、あまりにも絶望できで悲惨な不満を感じ、(略)もしも間断なく魂をもぎ取られると言ったところで、それはたいしたことではありません。その場合は他の者に生命を奪われるように思われますから。ところが、ここでは霊魂自身が自らを粉砕するのです。実際、私はこれほど恐ろしい責め苦や苦痛に加わるこの火、この絶望をどのように表現していいかわかりません。(略)繰り返して申しますが、一番恐ろしいのは(略)、この魂の絶望です」(『自叙伝』、31章、1.2)。

 これらの私的啓示は教会の教えと合致しています。神学では、地獄の罰には二種類あると考えられています。一つは神と離れた状態にあること、もう一つは火のような感覚的な苦しみを受けることです。

 こう聞くと「神と離れていることなんて別に苦痛じゃない」と思われるかも知れません。現にこの世では、大勢の人が神様とは無関係に暮らし何の苦痛も味わっていませんから。でも死ぬとこの状況は一変します。と言うのは、死ぬと神をはっきり見るからです。真善美そのもの、無限に完全なお方を前にして、霊魂は強烈にそちらに引かれるが、神を憎む霊魂はそれから遠ざかろうとする。ここで霊魂は自分の内側が反対方向に引き裂かれるように感じると考えられます。最高に善く美しいものを前にして、霊魂はもともと自分はこれを所有するために造られたのに、今それを永遠に失ったことをはっきりと知る。これが真の絶望です。

 感覚的な苦しみは、生きているときに肉体を用いて悪をなしていた人間が受ける当然の罰でしょう。仏教にも地獄の世界を描いてみせる説話があり、そこには生々しい話が山と出てきます。でも現実は人間には想像できないもののようです。こういう現実があるので、イエス様は何度も「警戒せよ」と言われました。私たちは死んでから、「こんなこととは知らなかった」とは言えないのです。十分な知識を与えられていますので。「金持ちとラザロの例え話」を思い出して下さい。地獄で苦しむ金持ちが、ラザロを彼の家に送って兄弟たちに地獄を免れることができるよう生活を改めよと注意して欲しいと頼んだとき、アブラハムは「彼らにはモーセと預言者がある」と答えました。私たちには聖書と教会の教えがあり、それで十分過ぎるほどだと言うことです。

 でも、有限の人間が無限の罰を受けることはありえるのか。無限に憐れみ深い神様が人間を地獄に落とされるなどおかしいのではないか、というような疑問があるかも知れません。それについては次回に見てみましょう。


54に戻る   56に進む
目次に戻る