56)地獄−2 |
新年おめでとうございます。年明け早々、こんなテーマで申し訳ありません。 地獄については一筋縄ではいかない疑問があります。その一つは、「人間は有限の存在なんだから、永遠の罰を受けるのはおかしい」というものです。確かに人間は無限の存在ではなく、人間がする悪はいくら悪いと言っても無限ではありません。しかし、罪とは人が神様を侮辱することという面を考えねばなりません。人間はすべてを神に依存しています。生きていることができるのも神のおかげです。その神に対して、侮辱を行うことは、想像を絶する悪行と言えるでしょう。また、神様が無限のお方なので罪にはある意味で無限の悪さがあると考えられます。また地獄の苦しみ自体はいかにひどいものでも無限ではありません。時間だけが無限ですが。 もう一つの疑問は、神様は憐れみの神なのだから、永遠の罰を人間に与えるなんて考えられないと言うものです。確かにどう考えても、永遠の罰ということはこれ以上ない恐ろしいことで、愛の神様にはふさわしくないように見える。だから、地獄が永遠であることを否定しようとした人は最初の時代からありました。殉教者の父をもつ3世紀前半の有名な神学者にして勇敢な活動家オリゲネスという人がこの説を唱えました。つまり、地獄もいつか終わりがあって、そのときには地獄の魂も悪魔も浄化されて天国に行く、と言うのです。もしそうならば、実際は地獄はなく、地獄と呼んでいるものは実は煉獄なのだということになります。しかし、それは聖書の教えと明らかに異なっています。イエス様以外、誰もあの世を見た人はいないのですから、人の言うことよりイエス様を信じるのが理屈に合っています。そこで教会はこの説を退けました。神は無限に憐れみ深いが、同時に無限に正義のお方である、と。 20世紀には自分の権力を守るために、ヒトラーやスターリンや毛沢東のように何百何千万単位の人間を(しかも後の二人は自国の人民を)殺した独裁者が出ました。また現在も、ある国の支配者は、人民が飢えと寒さに苦しんでいるのに自分たちだけはキャビアなどのごちそうをたらふく食べ、栄養失調で苦しむ人民を尻目に薬を独占し、無実の人を収容所に送ったり処刑したりして徹底的に弾圧している。あるいは規模はずっと小さいけれど、私たちの回りに弱者を食い物にして金を巻き上げ、時には自殺に追い込んでも平気の平左という輩や、何の抵抗もできない胎児や幼児を虐待し死に至らしめる親もいる。こういう行為があの世で裁きを受けないなら、また裁きを受けてしばらくの間苦しむが、結局は救われるというのは正義にかなうのでしょうか。この点について、地獄の罰も何兆年か後には終了するとする仏教の方がキリスト教より慈悲深いとする論に対する反論が、山田晶、『アウグスティヌス講話』新地書房の「第二話、煉獄と地獄」に載っています。 実際、もし悪人が最後の瞬間に神に赦しを願えば、それで地獄は免れるのです。このことが、神様の無限の憐れみを表しているとは言えないでしょうか。イエス様の傍で十字架にかかっていたいわゆる「よい泥棒」はその顕著な例です。皆さんの知り合いで一生の間ずっとあなたに悪意を持ち続け、いつも精神的肉体的苦痛を与え続けていた人があったとして(ないでしょうが)、その人が死ぬ前に「ごめん、赦して」と言ったなら、どう思うでしょうか。神様はそんな人間をさえ赦されます。しかし、最後まで自分の非を認めない人であれば、赦したくても赦せないのです。「神様が誰かを地獄に落とす」というのは正確な言い方ではなく、地獄に堕ちる人は自らそれを選ぶと言う方がいいのではないかと思います。 「人はどんな悪人でも、最後には神様に赦しを願うので、結局地獄には誰も行かないよ」と言った聖職者がいました。それを耳にした年配の神父様が、自分の体験ではそれは信じられない。臨終だというのでご聖体を持って行っても、本人から「誰が神父なんか呼んでくれと頼んだ。帰れ」と怒鳴られることもあった、と。人に謝るというのは容易ではないという経験をしたことはありませんか。夫婦げんかや兄弟喧嘩の後で、自分が悪かったとわかりながら、相手に赦しを願うのが難しいと感じたことはありませんか。一生の間、神も人もなきが如く傍若無人に振る舞い、自分さえよければよいという生活に徹してきた人が、最後になって簡単に神様に「すみません」と言えるでしょうか。 地獄とは神を見ないところ、と前回言いました。それすなわち愛のないところです。逆に言うと憎しみだけがあるところ。徹底的に自己中心のわがままな人たちが、互いに憎しみ合いながら、狭いところにぎゅうぎゅう詰めにされている風景を想像してください。それが地獄の一面です。
永遠の地獄の存在が神の憐れみに反するというのは、誤りです。それは主のご受難を見ればわかります。あの十字架の死を甘んじてお受けになったのは、すべての人に地獄の罰を免れさせるためでした。あれだけのことをして、それでも人間が自分のわがままを直さないなら、永遠の罰を受けても文句を言えた義理ではないでしょう。自由とは責任を伴うものです。自由にした行為の責任を取らねばならないのは当然ではないでしょうか。
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