57)煉獄

 ロシアにソルジェニ−チンという作家がいます。ロシア語では「それじゃ、にいちゃん」と発音されるそうです。この人は、ソ連の将校で第二次世界大戦中にスタ−リンを批判していたのが見つかり収容所に入れられます。10年間の収容所生活を生き延びて、学校の先生をしながら秘密裏に著作活動を続け、『イワンデニ−ソビッチの一日』という本でノ−ベル文学賞を受けた(1970年)人です。この人の作品の中に『煉獄の中で』という本があります。この「煉獄」とは、スタ−リン時代に科学者たちの収容所のことなのですが、その理由はソビエトにあった無数の収容所は過酷な肉体労働をさせるもので、普通の人なら住まないような極寒の場所にあり、設備も粗末で食べ物もわずかなので死ぬことも珍しくない(第二次世界大戦中、ドイツの収容所とソ連のそれとの両方を経験した人が、ソ連の収容所に比べたらドイツのはまだましだと言ったそうです。北朝鮮のはソ連のよりもっとひどいそうですが)。これに対して科学者の収容所は、寒くもないし食べ物もあるし、仕事は研究(小説では盗聴器に写した声を聞き分ける機械の開発)というわけで、一般の収容所を地獄とすれば、こちらは煉獄だというわけです。

 実は、この煉獄(purgatory)という言葉は聖書にはなく、またそれができたのはヨ−ロッパの中世なのです。そこで、ルタ−は「煉獄なんてのは、カトリック教会がでっちあげたことや」と言い、死後は天国と地獄しかないとしました。しかし、もし天国と地獄しかなければ、天国に直接行けると確信している人は少ないでしょうから、大変恐いことになるのではないでしょうか。

 それではカトリックはどうして煉獄の存在を主張するのでしょうか。まず、聖書には確かに「煉獄」という言葉はありませんが、次のようなカ所があります。まず、イエス様の言葉に「聖霊に反する罪は、この世でもあの世でも赦されない」(マテオ、12 、32)というのがあります。これに基づけば、「あの世で罪が赦される」ことがあるわけですよね。ところで天国には罪のない人が行くし地獄に行けば罪は赦されない、ということは天国でも地獄でもなく、死んでから罪が赦されるところがある、ってわけです。もう一つは、「彼自身は、火を通るようにして救われる」(コリント前、3章、15)という文。これも、天国なら火はないし地獄なら救われない、ゆえに火で浄化されて救われるところがある、って結論を引き出すのです。

 また、もう一つの論拠は、キリスト信者は昔から死者のために祈る習慣があったことです。もし天国と地獄しかなければ、亡くなった人のために祈るのは無駄なことです。なぜって、天国に行った人のためには祈る必要はないし、地獄に落ちた人のために祈っても役に立たないから。だから、もしキリスト信者が最初からそういう習慣があったなら、聖書には載っていないけれども、イエス様か使徒たちがそうするよう教えたか、すでに旧約時代からあったその習慣を誰も禁じなかったので信者はそれを続けたと考えられるわけです。

 天国に行く霊魂は、罪からまったく清められた霊魂ですが、死んだときそのような状態でいる人は少ないと思いませんか。もし、ルターやカルビンの言うように、死後には天国と地獄しかなければ、ほとんど全ての人は永遠の地獄に行くことになると考えられます。それゆえ、煉獄とは神の憐れみの表れと言えます。

 煉獄での苦しみについては聖書は何も書いていません。神学者たちは、一般にそれが火によるもので、この地上の最悪の苦しみよりもひどいものだと言います。しかし、同時に火は厳しくても、そこで苦しむ霊魂は喜びにあふれていると考えられます。その喜びはこの地上の最高の喜びよりも大きい。なぜならば、ここには希望があるからです。言ってみれば、煉獄は天国の待合室のようです。待っている人はその火が罪の汚れを落とすのに役に立ち、その後で神様に会うことを知っているので、喜んで苦しむようです。ちょうど、私たちが偉い人に会いに行くとき、服がどろだらけだったら、なんとしてもまずきれいに洗って乾かしてアイロンを当ててから会いに行いたいと望むのと同じです。

 煉獄での苦しみはまったく受動的です。と言うのは、ひとたび霊魂が肉体から離れたら、もう自分から善行を行うことができなくなるからです。ところで、地上でまだ生活している人間は自ら進んで良い業を積み、功徳を立てることができる。そして、それを煉獄の霊魂に譲ることができる。ちょうど、外国にいて困っている友人に送金をするみたいに。そのために教会は、ミサの中でしばしば死者のための祈るのです。

 しかし、死んだ人の中には、お金持ちで沢山のお金を残し自分のためにミサを捧げて欲しいと言って死ぬ人もあれば、貧しくまた身よりのない人もいるでしょう。もし前者がすぐに天国に行き、ひとりぼっちの貧しい人がなかなか行けないなら、まさに「煉獄の沙汰も金しだい」ですね。聖ホセマリアは、煉獄で天国に行くのを待っている人は一列に並んでいて、10番目の人が地上の人たちの祈りや善行によって天国に行くことになったら、彼は自分の前の9人の背中を押して一緒に入る、と考えました。真偽はまったくわかりませんが、そう考えるともっと祈ろうという気になりませんか。


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