29)イエス・キリスト−10(キリスト論−1)

 紀元30年4月、エルサレムの城壁の外でイエスという男が十字架刑に処せられた。その直後、彼の弟子たちはその男が神であると主張し、新しい宗教運動を始めます。この新宗教はユダヤ教の聖書の教えを受け継いでいるもので、唯一の神への信仰を基礎としていました。ここで大きな二つの問題が浮かび上がります。一つは、イエスが神の子なら神が二体あることにはならないか(三位一体論)。もう一つは、イエスが神なら人間ではないのか(キリスト論)という問題です。三位一体について前回説明しましたので、今回はキリスト論を見てみましょう。

 イエスが神であり人間であったという教えも秘義であり、誤解が生じるのは避けえないことでした。古代ギリシア人の間には肉体は悪という考えがあり、それゆえ「肉体を持つのは神にふさわしくない」と考えた人たちがいました。彼らは、イエスは人間のような格好をしていただけと言ったのです。もしこれが本当なら、キリストは十字架の上で本当は苦しみも死にもしなかったことになり、ならば何の功徳もなかったことになります。しかし、聖書は「イエスは肉体をとって来られたキリストである」(ヨハネ第一、4章、2;第二、7)とか「み言葉(神の子)は肉体となった」(ヨハネ、1章、14)、「女から生まれさせたみ子」(ガラティア、4章、4)という表現によって、イエスが人間であったという信仰を表明しています。

 他方、キリストが神であったことを否定する教えも初代教会のころからありました。この考えもキリスト教の土台を突き崩すことになります。というのは、イエスの死が全人類の罪を贖うだけの価値、すなわち無限の価値を持つのは、それが無限に尊い御方の死であるからで、単なる人間なら十字架上の死はいかに英雄的な死であっても有限の価値しか持たないからです。前回見たように、最終的にニケアの公会議(325年)によってイエスの神性が確認されます。

 しかし、キリストの人間性と神性がはっきりと公言されると、今度は「ではいったいこの二つの本性はどのような仕方で一つになっているのか」という新たな難問が出てきました。この難問を説明するのに使われた概念は、「ペルソナ」と「本性」という二つの概念です。ペルソナとは前回説明しましたように、「あなたは誰ですか」という問いに対する答えです。他方、本性とは本質と同じなのですが、少しニュアンスが違います。つまり、本質とは「そのものが何であるか」を示すもの(この意味で前回説明した実体と同じですが、正確に言うと、本質と実体は異なります)です。その本質を持つがゆえにそのものは特定の働きをします。本質を、この特定の働きの根源として考えるとき、それを本性と呼ぶのです。つまり、例えば、人間は動物と違って笑ったり話したりできますが、それは人間の本性を持つゆえにそのような行為ができると考えるのです。

 ここで大切かつ難しいのは、ペルソナと本性を区別することです。Aさんは、自分のもつ人間性によって笑いますが、笑ったのはAさんというペルソナであって、人間性ではないのです。ちょうど、車の運転において「誰が車を動かしたのか」と言えば、運転手であって、もしも事故を起こしたならその責任は、車にではなく運転手に帰せられるのと同じです。ペルソナは本性を使って行動し、行動の責任を負うのです。

 この違いを頭に入れて、イエスに注目しましょう。福音書を読むと、「神としての私」、「人間としての私」という表現は一度もなく、イエスには一つの「私」しかありません。それは、イエスには一つのペルソナしかないことを示しています。「私と父とは一つである」(ヨハネ、10章、30)というような発言から、そのペルソナは永遠の神のペルソナ(三位一体の第二のペルソナ)であることがわかります。

 他方、同じ福音書は、イエスが神として奇跡を行うと同時に、喜怒哀楽の感情をもち、空腹や喉の渇きを感じ一日の行程に疲れたことを記しています。つまり、神としての働きと人間としての働きを行っていたのです。これはイエスが神の本性と人間の本性と二つを持っていたことを示しています。これらのことから、託身(神が人となること)とは永遠の神のペルソナが神性を一寸たりとも損ねることなく完全な人間の本性を取ったということで、それゆえ、イエスは真の神であり、真の人間であるという結論が導き出されるのです。このような教えがまとめられるには時間がかかりました。そのことについては次回に説明したいと思います。

 イエスが本当の人間であったということは、ご受難が言語を絶する苦痛に満ちたものであったことを教えます。アメリカで封切りになったばかりの、メール・ギブソン監督の『パッション』という映画を鑑賞されると、人となった神の苦しみがもう少し深く理解できるかもしれません。


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