60)天国−3

 前回は天国の楽しみとは感覚的なものではなく、そのために地上に生活する我々には理解しにくいことを見ました。確かに困難なことですが、天国の幸福について少しでも理解を深めていきたいと思います。

 かつての要理には、「天国の幸福とは、まず三位一体の神を直接に仰ぎ見て愛し、永遠にその光栄と幸福にあずかることであり、さらに復活されたイエスをはじめ、聖母マリア、諸聖人、諸天使と親しく交わって、喜びをともにすることです。なお、そこで成聖の恩恵をもってなくなった親族や知人と再会することもできます」とあります。この簡潔な説明の裏には膨大な神学がかくれています。天国の幸福には二面がある。一つは神を直接見ること、もう一つは親しい人々を含めた聖人天使と一緒にいることです。この二つを考えると、二つめはなるほどそれは幸せだろうと想像できますが、一つめはあまりピンと来ないかも知れません。しかし、これこそ至福なのです。完全に理解できない神秘であることを認めながら、少し掘り下げていきましょう。

 人間がいつ幸せを感じるかを考えると、「愛する人と一緒にいるとき」ということが出てくるのではないでしょうか。それはいかなる富も快楽も及ばない幸せでしょう。でも、それはなぜでしょうか。それは、以下のように考えられると思います。つまり、人間が幸せを感じるのは、何かの充実感を感じているときでしょう。充実とは何かが満たされることですが、人の感じる充実感とは、自己の能力が満たされるときに生まれる。だから何も積極的に試みない人は、いつも満たされない空虚さを感じる。ところで、人間の能力の中で最も優れた能力は、感覚的欲求でもなく財産を所有する能力でもなく、「知ること(知性)」と「望むこと(意志)」です。人が「神の似姿」であると言うのは、この知性と意志を備えている点を指します。そうして、この能力を満たすことが人間に幸福をもたらす。愛とは、この二つの能力の共同作業です。と言うのは、愛するためには望むだけではなく、まず対象を知ることが必要だからです。ですから、無限に価値あるものを知り望む、すなわち愛するとき、人間は最高の幸福を感じると言えます。

 しかし、人間の欲求を満たすその無限なものはあるのでしょうか。それは無限の神しかありません。ですから、無神論を心底信じるなら、必然的に虚無主義、つまりすべてはむなしいという結論に到着します。ただ、もし神が存在したとしても、人間の力だけでは、神を直接見て愛することは不可能です。神は無限、人間は有限だからです。ところが、啓示によれば、神が人間にこの幸せをお恵みになるのです。すなわち、ご自分を「ありのままお示しになり」、「キリストと一緒にいさせてくださる」のです。聖書には、天国の幸せとは「神を顔と顔を合わせて見る」(コリント前、13章、12)、「御子をありのままに見る」(ヨハネ第一、3章、2)、「キリストとともにいる」(フィリピ、1章、23)とある通りです。

 「神を仰ぎ見る」ことがどれほど素晴らしいことかは、この世では理解不可能です。なぜなら、神そのものをこの世で見ることはできないからです。特に、日々感覚的なことだけを追い求めているなら、芸術や友情のすばらしさを説かれた幼児のように、「神を見る」と言われても何の魅力も感じないことでしょう。それに対して、キリスト信者でなくても、それに気づいた人もいます。旧約の詩編著者は「主よ、私はあなたの御顔を尋ねもとめます」(27,8)と叫び、聖書以外でも例えば古代インドの宗教家やプラトンなどは、神を直接見ることの憧れを表明しています。アリストテレスは「人間的な生活を超えて、神的な生活をしなくてはならない」と断言しています。この人々は素直なこころをもってものごとを静かに深く考えた人たちです。

 ですから、騒音と日々の煩いのなかで生活する私たちも、目を天に上げ、永遠のことについて考える静かな時間を確保することが絶対的に必要なのです。そのために極めて貴重な時間が日曜日のごミサ、そして毎日の祈りの時間です。でなければ、容易に本当に大切なものを見失い、世間的なものに流される根無し草のような生活に陥ります。『星の王子様』にあるように、「本当に大切なものは目に見えない」からです。それを見るためには、眼を閉じて、心の世界を見つめる時間を持たねばなりません。

 「世間、悪魔、肉欲はペテン師の冒険家である。あなたの内にある未開人としての弱さをだしにして、価値のない快楽のおもちゃと引き替えに、命を与えあがなう神の御血にひたされた純金、ダイヤ、ルビーをせしめようとする。それらは永遠の命という宝を得るための代償であるのに」(ホセマリア・エスクリバー、『道』、708)。


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