第8回 頭がいいとはどういうことか

 セイド−タイムや昼休みに教室を訪れるといつもたくさんの人が机に向かって勉強していますが、休み時間くらいは外で思い切り遊んでください。

 さて皮肉はこれくらいで、今日は「頭がええとはどういうことか」という問題を考えたいと思います。そんなことを言うと、「そりゃ、学校の成績が好い人が頭がいいのじゃないの」と言うでしょう。これは現在の日本人のほとんどみんなが支持する考えかも。学校で優秀な成績の人は難しい大学に行く。だから難しい大学の人は頭がよく、会社は争ってそういう大学の学生を採用する。その結果、良い大学に行くために良い高校に、そのために良い中学、よい小学校、はてはよい幼稚園に、血眼になって入ろうとする、受験地獄ができあがるわけです。

 このような受験社会は、別に日本だけの現象ではないようです。お隣の韓国なんかもっとひどいらしい。また、かつて中国で科挙という役人になるための採用試験があったときは(隋の時代から清まで)、受験教育、受験産業、はてはカンニングの技術までがすさまじい発展を遂げたそうです。でも、現在ではこの学歴第一の考え方が行きづまっていると考える人が多い。現在我が日本はかなり危機的な状況にあるわけですが、それはこの日本を牛耳っている高学歴のエリ−トのせいではないか、というわけです。それでは、哲学ではどう考えるのでしょうか。

 哲学、哲学と言っても、私が言う哲学は、実は古代ギリシアの哲学(代表者はプラトンとアリストテレス)と、それを吸収してまとめた中世のキリスト教哲学(代表者がトマス・アクイナス;13世紀の人)のものです。日本でもてはやされる西欧の近代哲学には、時にひどい欠陥があるのです。もしそうでなければ、現代社会はこれほど混乱していなかったでしょうに。でも近代哲学も折に触れて紹介したいと思っています。そこには、とてつもない考えをした人がいて、かえって面白いこともありますから。

 さて、頭、と言ってもヘッディングをするため、あるいは帽子を載せるために使うものではなく、考えるために使う頭は知性と呼ばれます。この知性は、何を知るかに従って、理論的知性と実践的知性に分けられる。理論的知性とは学問的な知識を得るもので、実践的知性とは、生活の中の個々の状況で正しい判断を下すものです。実践的知性は、生活の中での実際的問題をどのように解決すべきかを判断するもの(これを賢慮と言う)と、また何かを造り出すとき(技術、芸術と呼ばれる)の二つがある。

 ところで、学校で習う授業、つまり数学、国語、理科、社会などは、理論的知性に関するものだけです。英語は、文法ならば確かに理論的なのですが、ヒヤリングとかよく話すこととかは実は技術なのです。だから、英語の成績は悪いことは必ずしも英語を上手に話せないということを意味しない。英語の成績がよい人が必ずしもペラペラ話せるわけではない。逆に「おれは英語が話せないから頭が悪い」と悩む必要もないわけ。

 さて、みんなが非常に気にする学校の成績とは、主要5教科の成績は人の理論的知性に対する評価なわけ。それに対して、みんながあまり気にしない技術、音楽、体育などのいわゆる技能教科は、実践的理性の技術と芸術に関する評価ざんす。日本の教育で大切にされるのは理論的知性で、技能はそれほど評価されないことはみんなもよくご存じのこと。ましてや、知性のもう一つの面、実践的知性の賢慮は、まったく評価されないでしょう。私はこの日本の評価の仕方が悪いと言っているのではなくて、ただこの評価は人間の部分的な評価でしかないことを忘れないようにと言うのです。

 というのは、社会に出たら理論的知性より、実践的知性がより大切になることがしばしばなのです。たとえば、人間関係をうまくやっていくのは実践的知性の問題です。むかし新聞で小さいときから塾通いで東大に入った人が、どうやって友達を作ったらいいのかわからずに悩んでいるという記事を読んだことがあります。難しい数学の問題は解けるけど、どうやって知らない人に話しかけるのかが分からなかったそうです(もちろんこれは極端な例外でしょう)。また、政治や商売の世界で必要なものはどういったことでしょうか。それは、人間の気持ちを読み取り、社会が必要としているものを機敏に察知することでしょう。これには、数学や英語や理科の知識は何の役にも立ちません。だから、ほとんど学歴の無い人で、優れた政治家や企業の経営者になった人も多いのです。(もちろん立派な学歴を持ち立派な政治家や経営者になっている人もいる)。江戸時代のある商人は、江戸で大火事があったのを見てすぐに木曾に行き材木を買い占め江戸の町の再建が始まるとぼろ儲けしたそうですが、このように機を見てすぐに決断して動くことは、学校では教えられないことです。現代のスペイン語を作ったと言われるセルバンテス(1547-1616)、近代英語を作ったといわれるシェ−クスピア(1564-1616)は、どちらも大学に行っていない。かつて日本のプロ野球で頭脳的な投球で有名だったある投手の、高校時代の先生に知り合ったのですが、その先生は「あいつはあほやった。全然勉強しよらんやった」と言っていました。学問のための頭脳とスポ−ツのための頭脳も違うようです。

 私が言いたいことは、主教5教科は大切ではないとか、また大学なんか行ってもしゃないとかいうことではなく、学校の成績だけで人を判断したら(どうしてもその傾向があるのですが)大間違いだということです。昔大学でスペイン語を教えていたとき、試験の後で成績の悪い人に「試験の成績は、君がスペイン語をどれだけ理解しているかを表わすだけで、君の人格を評価するわけとちゃうよ」とわざわざ言ったことがある。というのは、時々学校の成績悪いと、自分が否定されたように考える人がいるのです。立派な学歴を持ちながら、人格を疑うようなことを平気でする人もいることなんか、新聞をちょっと読めば一目瞭然でしょうに。

 では実践的知性は、どうやったら伸ばせるのでしょうか。これは難問ですが、一つ言えるのは、これにはどうしても経験が必要ということです。どうやって経験を積むかと言えば、人生の先輩(親や教師)とよく話すこと、たくさんの人と交わる機会を持つこと、よい本を読むこと、などではないかな。そして、実践的知性を伸ばすためにはたくさん失敗する必要があります。


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