第9回 人間とは善か悪か

 宗教の授業がなかなか進まないのでプリントで先回りしてしまうことになりますが、今回から何度かにわたって「人間とは何か」にまつわる話をしたいと思います。と言っただけであくびをする人があるかも知れませんが。

 むかしむかし中国に春秋戦国時代(BC.770-221)という乱世の時代がありました。この時代には才能さえあれば別に大学を出てなくても大臣や大将になることもできたので、屁理屈が得意な人は、国を強くする方法を教えますとか、戦争に勝つ方法を教えますとか、口先三寸で外国を騙しますとか言って、自分のアイデアを使ってくれる有力者を探して売り込もうとしていました。その結果いろいろな思想が生まれ諸子百家と呼ばれたことは、みんなもご存じの通り。

 さて、そのような思想家たちはそれぞれ有名な先生の回りに集まってグループを作り、「わしゃ何派や、おまえは何派け」と、互いに対抗意識を燃やし、相手の悪口を言うことに余念がありませんでした。その中でも特に大きな集団になったのは、儒家と法家と言われる二つでした。儒家とは孔子(BC.6-5c.)の始めた教え(儒教)を奉ずる人々で、その中でもとくにブリブリ言っていたのが孟子(BC.4-3c.)でした。法家とは旬子(BC.3c.)という人に従った連中です。あの秦が天下統一を成し遂げた理由の一つは法家の学者を大臣にしたことです。

 ところで、この二つのグループの間では大きな論争がありました。それは「人間とはええもんやろか、それとも悪いもんやろか」という問題です。「しょうーむな」と言って、ここで目を紙面から離してしまわず、もうちょっと辛抱して読んで下さい。儒家の人々は「人間は本来ええもんや」と主張し、「スブタにハッポウサイ、チャウシュウメンにギョウザ」と言っていました。(中国語を知らない人のために、日本語に訳すと「もし、赤ちゃんがハイハイして井戸に近づくのを見たら、誰でもその子を止めて助けるやろ。それは誰にも見られんでもそうするんやさかい、人間ちゅうもんはええもんなんや」となります)。

 他方、法家の人達は「そんな理屈には満足できへん」と言って、「トンナンシャーペイ、ピンフでロン」と言い返しました。(これも念のために訳しておくと、「人間は欲望にしたがってだけ生きとんやから、生れつき悪いもんや。せやからええ社会を作ろと思たら、厳しい法律をようさん作ってびしびし取り締まる以外に方法はありまへん」)。そしてその例を挙げて、「シーアン、ナンキン、カントンにテンシン栗」と言ったわけです。(簡単に意訳すると「もし道に千円札が落ちとって、回りに誰もおらんかったら、みんなポケットにないないするやんか」ってわけ)。

 人間が本来悪いものだとするのを性悪説(「セイアクセツ」と読む。性とは生まれつきの性質という意味)、その逆を性善説と言う。実はこの問題はヨーロッパでも考えられたのです。例えばフランス人のルソー(1712-1778)は「ウヒョ、人間は本来良いものざんすから、教育とは子供の良い面を引き出してやることざんす。だから校則や罰は少なくして子供の自主性にまかせんさい」とフランス語で言って性善説を説いていましたし、他方イギリスのアダム・スミス(1723-1790)は「人間は自分がもうけることしか考えとらへん」と性悪説を主張していました。彼の結論は「だから政府は国民の経済活動にまったく干渉せずに放っておいたら、自然に国全体が豊かになりまんねん」ということです。彼は『国富論』を英語で書いてこの考えを発表したのです。

 みんなはどう思いまか。もしルソーの言うことが全く本当なら、先生が何もいわんでも、ほんのちょっと生徒たちを誉めたりすることで、生徒はちゃんと宿題や自主勉をし、学校の掃除もきっちりして、かくて世間にはいつも明るく楽しく清潔な学校がうじょうじょしているはず。ところが実際は、世間にはいじめ、校内暴力、退学、銃の乱射事件、ナイフは飛んで来るわで荒んでいる学校がいっぱいあるのが現状でしょう。そういえば、ルソ−は「その原因は、先生がうるさく言い過ぎて、校則を一杯作って生徒の自由を尊重しないからざんす」と反論するでしょう。確かに、怒ったり叱ったりするだけなら、子供はできることも萎縮してできなくなり、逆に誉めたり生徒の良いところを注意深く見付けて認めるなら生徒の隠れた才能が伸ばされるもの本当でしょう。そして生徒の自由と人権を認めず、むやみやたらに厳しい教育も珍しくないけれど、一般に学校でなぜ先生がうるさく言うかというと、うるさく言わなければ生徒は普通自分から進んですべきことをしないからじゃないか。もし遅刻しても罰はない、宿題しなくっても怒られないなら、遅刻はしょっちゅうするし宿題もしないでしょうね。私も。

 官庁の腐敗事件や子供の暴力事件、また昔のナチスが600万人を、スタ−リンが2000万人を、ポルポトが200万人を虐殺した、なんてことを聞くと人は悪いもんやと思いたくなる。が、逆に無数の名もない人が貧しい人や病気の人の世話をほとんど報酬ももらわずにしていることなどの立派な行いを知ると、「人間は良いもんや」という考えに傾く。

 また、同じ人間でも同時に二つの面を持つことがある。普段は優しい人なのに、起こったら目茶苦し茶なことをする人もいる。きみたちでも、あるときは親切に、あるときは冷たい人になることがあるでしょう。あの少年も小さいときからあのような血に飢えた殺人鬼であったのでは絶対にないはず。

 まず人間が良いことと悪いことを区別できるという事実自体が、人間が100%悪いものではないことを示している。もし100%悪いものなら、悪いという概念さえもたないはず。むしろ悪いことをした後で痛快な感じで満たされ満足感に浸るはず。悪いことをした後、なんとなくしっくり来ない(難しい言葉で言うと「良心の呵責を感じる」)ことは、人間が善いものであることの証拠でしょう。

 実際人間って不思議なところがあるって思いませんか。普段は優しい人でも怒ったら目茶苦茶することもある。自分でも、あるときは親切になるかと思えば、別の時には冷たい人になったりする。心の中ではお父さんお母さんに感謝していても、実際親の顔を見たとたん憎たらしいことを言ったりした経験はありませんか。私にはよくある。人間には良い面と悪い面が同居しているみたい。

 人間が善悪の判断をするということは、みなさんも認めるでしょう。つまり「これはしたほうが良いとか、これはしたら悪い」とか考えるということ。良いことと悪いことを区別するということ自体、人間が100パーセント悪い者ではないことを示している。というのは、もし人間がとことん悪いものなら、「良いことをしたほうがいい」とか、「悪いことは避けよう」とか考えないで、むしろ「なんでそんなこと気にするんや、ばかばかしい。なんの得にもならへんのに」と憎まれ口をきくはず。また、他の人の不幸を見て、同情したりはしないでしょうし、逆にいつも他人の不幸を喜ぶでしょう。だから人間は100パーセント悪い者じゃない。けど、だからと言って100パーセント良いものでもないわね。せっかく善悪の判断ができて、良いことだと分かっているのにそれをしなかったり、悪いことだと知っているのにそれをしたりするのですから。

 この二つの事実、すなわち善悪の判断ができることと、必ずしもその判断に従わないことは、人間というものが不完全なもの、かなり立派なものなのにどこか故障しているものだということ表していると思います。どうして人間には故障があるのでしょうね。これは不思議だと思いませんか。もし思わなければ、今晩お風呂に入って、お湯につかりながら「♪月が出た出た♪」を歌う代わりに、ちょっとこの問題を考えて下さい。そしたら、「やっぱり人間は不思議や、不可解な存在じゃ」と分かるかもしれません。


第8回に戻る   第10回に進む
目次に戻る