第10回 キリスト教が考える『原罪』

 先日新聞の投書欄にある女の子が「私はいったいどこから来たか。どこへ行くのか」という問題を考えるというようなことを言っていました。この精道三川台の中にも、寅さんのように「おまえ相変わらず馬鹿か」と挨拶をしたくなるくらい、表面ではまったく馬鹿なことしかしないけど、それは世をだます仮の姿で、心の中ではきっとこのような悩みを抱えていると思うのですがどうでしょう。

 前回、性善説と性悪説を紹介して、「人間はええもんか」について考えてもらいました。実際人間には良い面と悪い面が共存している。このことが人間を複雑怪奇にしているのですが、この問題はとても重要な問題なので、今日はそれについてキリスト教の教えについてお話したい。ある人が「人間とは、自然が造ったとしたら、最高傑作品だが、神が造ったとしたら、失敗作だ」と言っていました。これは言いえて妙です(「うまいこと言う」をきざに言うとこうなる)。

 「もし人間が神様から造られたのであれば欠陥品である」ということですが、自分のことを振り返ってみてそう思いませんか。しないといけないと分かっちゃいるけどできないことがしばしばあるでしょ。頭でわかっていることが実行しにくい、というのが人間の最大の欠陥です。人間にとって最大の苦しみは、思い通りにことが運ばないことでしょう。もちろん、いくらがんばっても不可能ということもある。私が今急に英語をペラペラに話すことは不可能なように。これは能力の問題ですから、ある程度仕方がない。けれど、例えば、今日は家に帰ったらすぐに宿題をしよう、という良い決心を立ててもできないことがある。これは、能力の問題ではなく意志の問題で、こちらは仕方がないとあきらめられない。人間の意志が弱いことこそ、人間が欠陥品と言われるゆえんです。そこで、どうして神様はこんな欠陥のある人間を造られたのか、と言う疑問が当然沸いてくるわけ。

 キリスト教によれば、神が造られた人間は現在の私達とは少々違っていたのです。どう違っていたかというと、最初は理性が体を完全に支配できた、らしいのです。だから、例えば、アダムは、学校から帰えると、決まった時間に勉強を始めることができたはず。夕方になって、畑を耕すことに疲れを感じたとしても、決められた時間まで苦もなく仕事を続けてし終えたはず。

 それでは、どうして、最初の素晴らしい状態が続かなかったのでしょうか。それは皆さんも良くご存じの通り、原罪のせいだと教会は教えているわけ。つまり、いってみれば、最初の状態はすべてが調和(ハ−モニ−)していた状態だった。肉体は、自分の上にある理性に、人間は自分を支配すべき神に完ぺきに従っていた。ところが、イブとアダムが神様の命令に逆らったため、肉体も理性に逆らうようになった。つまり下剋上の状態になってしまい、ハ−モニ−が崩れてしまったわけです。そして、なんとこの状態が子孫にまで受けつがれるようになった(「そんな殺生な」と思うかも知れませんが)。だから、人間は欠陥を持っているのです。でも、この欠陥は神様が人間を造り間違えたせいではなく、人間が罪を犯した結果なのだ、というのが聖書に基づく教会の教えです。

 この教えが本当かどうか、つまり、最初の人間が私達とは少し違ったということは証明できません。なぜなら、万が一アダムとイブの骨が出てきたとしても、「こんな奇麗な骨だったら、原罪はなかったはずや」とか「こんなぶっとい骨やったら原罪があったはずや」とかは言えないから。骨から最初の人間の状態まで類推できない。では、この原罪の教えは、単なる作り話しか、と言えば、余りにもよく我々人間の状態を説明するのです。

 また、人間が原罪をもって生れてくることは、4、5才の子供をみても分かると思います。のような子供たちは、とてもかわいらしくまだ罪を知らないはずなのに、でも我がままな振舞をするでしょう。そのくらいの年齢の子供が我がままを言って親を困らせているのを見たことはありませんか。

 しかし、問題はこれで済んだわけではない。「ゲゲッ」と言わずにもう少し耳を傾けて下さい。次の問題は、それでは原罪がどれほどひどい害を人間に与えたのか、ということです。この点に関して、ルターは「人間は原罪の結果、とことん腐ってしもうたんや。せやさかい、人間はもうええことしよと思ても、できへんのや。人間のする行ないはみんな罪なんや」とドイツ語で言っていました。この説を聞いた人々は腰をぬかして、「もしそうなら、人間はどがんして救われると」という尋ねました。そうするとルタ−は、「なんぼ罪を犯しても、イエス・キリストが私を救ってくれると信じさえすれば、救われるんや」と答えたわけ。これが有名な「信仰のみ」の教えです。

 これに対してカトリック教会はすぐに反論しました。教会によれば(また聖書にもはっきりそう出てくるのですが)、確かに原罪の結果人間は悪に傾くようになり、そのため良いことをしようとすると抵抗を感じるが、まだ「良いことをする能力」は残っている。もし、人間がよいことができないなら、何をしても罪なら、その人は自分がした悪いことに責任を持たなくても良くなります。悪いことをした人に、「なんでおまえ、こんなことをしたんや」と怒ったとしても、その人は「だって、ぼく良いことはできないんだもん」と答えるでしょう。万一そんなことを言ったら、「なに寝ぼけたこと言ってんねん」と言われて頭を2、3発殴られるのが関の山。

 ここまで我慢に我慢をかさねて読んでくれた人のためにまとめますと、キリスト教によれば、人間は良いものだけど、悪に傾いている。むかし、子供が万引きなどの悪さをしたことを知らされた親が、「うちの子に限ってそんなこと」とよく言ったと聞きましたが、そのような親は人間がみんな悪に傾いていることを忘れていたのです。このような錯覚は、私たちも簡単に陥りますよ。自分の心に悪い考えが浮かんでも、驚くことはない。それは自然だ。また友達の行ないに悪いことを見つけたとしてもびっくりすることはない。しかし、それでいいわけではない。その悪い考えや行ないにストップを欠ける必要がある。そうしないと、すぐに「切れて」人をナイフで刺す人や、「つい、出来ごころで」人のものを盗むのが習慣になる人間ができるのです。

 皆さんも自分自身と周囲の人をよく観察して、正しい人間観をもつよう努めてください。


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