第11回 満州戦争と神の存在

 明日から中総体ですが、選手の皆さん頑張ってください。スポ−ツの試合でもっとも不思議なことは、ビビルという現象です。もっともこれはスポ−ツだけでなく、試験や大勢の人の前に立つときにも、起こることがあります。なぜビビルかといえば、悪い結果を考えてしまうからだと思います。例えば、アウトになるんじゃないか、とか負けるのじゃないかとか。しかし、よく考えれば、スポ−ツの試合に負けたとしても、死ぬわけではないのです。

 数年前にプロ野球のセリ−グでは巨人軍が7月まで二位以下を10ゲ−ムくらい引き離して独走していました。が8月頃から調子が悪くなり、10月になると青息吐息で129試合目(つまり最後から2試合目)でこれに負ければ最終戦(2位の中日との試合)で勝ったほうが優勝という事態になりました。がこの129試合目の試合でなんと巨人は負けてしまったのです。試合が終わったとき巨人のベンチは異常な雰囲気だったそうですが、その中で長島監督がニヤッと笑うのをある新聞記者が見ました。記者は、その時は質問するのをはばかったのですが、最終戦で巨人が勝って優勝が決まると、試合後に「監督、あのときはなぜ笑っていたのですか」と聞きました。長島さんは「あのときは、良くも悪くも俺ってなんでこうドラマチックなんだろうと思って笑った」と答えたそうです。すごい度胸ですね。こんな感じで中総体を楽しんでください。

 ところで話は変わって、みなさんは「中国残留孤児」って聞いたことがありますか。第二次世界大戦も押し迫った昭和20年8月8日夜に、当時日本人の植民者と軍隊がいた満州に、日本と中立条約を結んでいたソ連(当時はスタ−リンが支配していた)の強力な軍隊が侵入してきたことは昨年習ったでしょう。そのとき満州を守っていた軍隊は、かつては「泣く子も黙る関東軍」と言われたほど強くて怖い軍隊だったのですが、南太平洋の島々での戦争が激しくなるにつれてそちらの方に輸送され、代って学徒出陣で徴兵された大学生の軍隊が守っていました。ソ連の優秀な機械化部隊(それは少し前までナチス・ドイツと戦うためにアメリカから多大の援助を受けて強くなった)に、そんな素人の兵隊が、しかも満足な武器も持たずに戦えると思いますか。実は私の高校時代の先生が、早稲田大学で勉強していた時に召集されちょうどそこにおれらて、授業で時々その経験を話して下さいました。

 ソ連の侵入を食い止めるために彼らが命令されたのは、火薬を背負って戦車の下に入ることだったのです。その訓練を毎日受けて、先生の部隊の隣の部隊はそれで全滅しました。そして、先生の部隊もいよいよ明日出陣というときに、運良く終戦になったそうです。しかし、その後先生たちは、ソ連に捕まりシベリアに2年間抑留されて仕事をさせられたのです。幸いに先生の仕事は救護班の仕事で、凍傷にかかった人の手をたくさん切るという別の意味で辛い仕事だったけど、死ぬことはなかったと言っておられました。

 ともかく、ソ連軍が来たとき、満州にいた日本人は我先にと逃げました。ソ連の兵士に捕まれば何をされるか分からなかったからです。そのときに小さな子供を持っている人の中には、赤ちゃんを現地の中国人に預けて、ひとまず逃げ延びて、後で引き取りに来ようと考えた人も少なくなかった。また、現地の中国人(満州人)にも親切に子供を引き取ってかくまってくれた人がたくさんいたようです。しかし、戦争が終わると中国には国民党と共産党の内戦が起こり1949年に共産党が勝つと、日本は台湾の国民党政府を認めたので大陸の中国とは国交が絶えてしまった。そのため、引き揚げた日本人は満州に帰れなくなったのです。そうして、その子供たちは中国人として育っていったのです。が、1972年、田中内閣の時、日中国交が回復すると、この問題が思い出されました。

 そのときもう大人になっていたあの孤児たちは、どう思ったと思いますか。「もう今更日本に帰っても言葉も分からないし、どうしようもない」と諦めたのでしょうか。日本で生活することは諦めても、多くの人が少なくとも自分の本当の両親、肉親に会いたいと思ったのです。だから、毎年日本に来ては、少ない手懸かりを頼りに肉親捜しをされているのです。本当の両親を知っている私達にはこの気持ちは分からないでしょう。でも、少し想像はできるのではないでしょうか。もし、私の両親が誰か分からなかったら、私は何の不安もなしに生活できるでしょうか。人間にとって、自分がどこから来たか(ル−ツ)を知ることは、「自分が誰か」(英語でidentity)を知るためにどうしても必要なことなのです。

 話しが長くなりましたが、このことで言いたいことは、神様は人間のル−ツと関係のある問題だということです。だから「神の存在」はあらゆる人間にとって、無視できない問題なのです。こんなことは考えたこともないかも知れませんが、もし神が存在しないなら、人間は自然から自然に(すなわち偶然に)生まれたことになるでしょう。そうすると、人間の存在は偶然の産物ということになるでしょう。それならば、人間が、あるいは私が今生きていることは、別に何かの目的のためではなく、ただ偶然のうちに生まれて来て、偶然のうちに死んでいく、ということになりませんか。これに対して神が存在するなら人生は全く別の意味を持ちます。

 前に言いましたが、私はよく大学生とこのような話しをしました。すると意外とたくさんの人が、「神の問題は中学生くらいの時考えたことがあるけど、どうせ答えが出る問題じゃないと思って、また勉強が忙しくなったこともあって、考えるのはを止めた」と言っていました。非常に残念なことだと思いました。今日は時間がないので、次のことだけを言っておきます。つまり、「神の存在」の問題は、数学や英語の問題よりも実は大切で、また少なくとも「神の存在について考える(推理する)ことができる。そして、昔からたくさんの人が、一流の思想家がこの問題と取り組んできた」ということです。ではどうやって推理するのか、これは次の機会に説明したい。

 ある人たちは、「でも、それはまだ科学が発達していなかった昔のことで、自然科学の発達した近代では、神は忘れられたんとちゃう」と主張します。科学と信仰の問題はいずれ説明しますが、ニュ−トンやアインシュタインやマックスプランのような一流の科学者が神の存在を信じていることだけ言っておきます。

 また満州の戦争の話は、スポ−ツが平和だからできることを教えてくれます。いつ敵が攻めて来るか分からず、明日の命も定かでないような時代には、のんびりスポ−ツを楽しむことなどできないことでしょう。

 ということで明日、明後日、頑張ってください。


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