第12回 それぞれの才能・その1

 中総体、選手の人たちも応援の人たちのお疲れ様でした。もう気持ちを入れ替えて、来週に迫った期末試験の準備に忙しいことと思いませんが、試験前に難しい話も何なので、今日は趣向を変えて読物にします。

 先日満州の話をしました。昭和四〇年代には「戦争を知らない子供たち」というフォ−クソングが流行ったことがありました。現在の日本ではますます戦争を体験した人たちが少なくなってきています。あるスペイン人の友人が戦争(この場合1936〜1939年のスペイン内戦のこと)を体験した人たちは強いと言っていましたが、日本でも同じだと思います。だから、現在の日本の戦争体験者たち(60歳以上の人たち)はまだまだ長生きするが、戦後世代の30-40歳台の我々は口では偉そうなことを言っても虚弱体質なので意外と早く死ぬ。だから二一世紀になると、老人がばたばた倒れていって高齢化社会の問題はないという人もいるそうです。

 その戦争体験者の強さを物語る話を一つ読んでください。諸君は鈴木アナウンサーという人を知っていますか。これは、その方の『気配りのすすめ』という本の一章です。鈴木アナは昔NHKのクイズ番組の司会をしていて、その時は軽い人かなと思っていましたが、この本を読んで私の判断こそ軽い判断だと思い知りました。

【ある薄幸な少女

 世間では、良く才能のあるなしを問題にするが、人は誰でも他人にない素晴らしい才能を持っているのだと私は信じている。才能の全くない人など、この世には存在しない。才能がないと絶望している人がもしいたとしたら、それは、周囲もその人地震も、自らの内に秘められた才能の存在に気がついていないのである。

 才能について考えるとき、私には忘れることのできない一人の少女がいる。それはまだ私が十代の頃に出会った少女である。私は東京の下町で生まれ育ったが、旧制高等学校は津軽にある弘前に行った。時代はちょうど戦争の最中であった。私はいずれ兵隊にとられ、天皇の名のもとに、敵のタマに当たってひっそりと死んでしまうことになるだろうと思っていた。どうせ死んでしまうのだから、せめて生きている間ぐらいは、この世に生きていたあかしを立てておきたいと願った。そして私は小さい頃から読書が好きだったので、どこか静かなところで一行でも多く本を読みたいと思って、はるばる北国へと旅立っていったのである。

 そこで、戦争は終わり、私は兵隊にとられることもなかった。そのとき私は十八歳だった。戦争が終わってまもなくのことである。一人のアメリカ人牧師が私を訪ねてきて、こんなことを言い出した。「いま日本には戦争で親を亡くした子供たちがたくさん放浪しています。私たちだけではとても手が回りません。あなたにも手伝っていただきたいのです。子どもたちの面倒を見てもらえますか」私はこの申し出を快く引き受けた。そのとき私の頭にあったのは、"どこかへ奉仕活動に行けばいいのだろう"ということだった。「よろしいですよ。私のできることなら喜んで協力いたしましょう」

 翌朝になると、また牧師さんがやって来た。だが、その姿を見て私は腰を抜かさんばかりに驚いた。牧師さんは一人で来たのではなかった。下は三歳から上は十三歳までの浮浪児をなんと六十八人も連れてきたのである。十八歳の私は、こうして六十八人の子どもの父親代わりとなった。私に与えられたのは、終戦まで軍隊が使っていた兵舎が一棟。兵舎といっても、お粗末を極めたもので、窓ガラスなど割れ放題だ。私はあちこちから新聞紙をかき集めてきて貼りつけた。ふとんもない。そこでアメリカ軍の司令部に電話をしてベッドが欲しいと頼んでみた。すると、二時間後、七十人分のベッドが運び込まれた。私は、占領政策なのか、それともアメリカ人というのは、皆こんなにやさしい人たちなのかよくわからなかった。私はそのとき十八歳になったばかりであった。確実にわかったのは、昔の日本軍ならば、けっしてこんなことはしてくれなかっただろうということだけであった。こうして寝る場所と寝具は何とか確保できたが、それから後の生活が大変だった。何しろ食糧難の時代である。両親がちゃんとそろった家庭でも、「明日は子どもに何を食べさせようか」と頭を悩ませた時代に、親を亡くした六十八人の子どもに三度の食事を与えることは並たいていの苦労ではない。戦争を体験した世代の方なら、どんなにひどい生活であるかおおよそ想像していただけるだろう。

 私は毎朝三時に起きて子どもたちの朝食をつくった。六十八人分の朝食。しかし実際はそれだけでは足りない。約半数近い三十人が学校へ通うので、その子たちの昼の弁当も用意しなければならないのだ。給食はまだ始まっていなかった。つまり、朝はまずざっと百人分の食事づくりから始まるのである。そうこうしているうちに、冬が来てしまった。津軽は雪が多い。粗末な兵舎での夜は想像を絶する寒さであった。暖房器具はないし、寝具も不十分だから、小さい子どもたちはいつまでたっても寒さのために寝つかれない。仕方がないので、私はベッドからおりて、板張りの床の上に寝具をしき、大の字になって寝た。そうして小さな子たちを私のまわりに集めるのである。肌を寄せ合っていると少しは暖がとれるのである。幼い子どもたちは、私の両腕、両足、腹などを枕にして寝た。まるで豚の親子である。いまの私が豚のごとく肥ってしまったのは、このときの後遺症ではないかと思っている。

 さて、私が必死になって面倒をみなければならなかった六十八人の子どもたちの中に、一人の少女がいた。その子は精薄児だった。名前も年齢も、両親の名も、どこから来たのかもわからない。おそらく十二、三歳だったと思うが、やせていて背も低く、おまけに耳が聞こえず、ほとんどしゃべれなかった。これだけ悪い条件がそろえば、正直いって集団生活では持てあまし者である。だが、この少女が六十八人の中で誰にも負けない素晴らしい能力を発揮してくれたのである。】

(続きは次回へ)


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