第13回 それぞれの才能・その2

 (前回からの続き)
 それは洗濯だった。朝から晩まで彼女は黙々と洗濯をした。何しろ六十八人分である。私は朝三時に起きて食事づくりをし、半分の子どもが学校へ行っている間に買い出しに行く。帰ってくると小さい子供たちに昼食を食べさせ、すぐに夕食の準備に入らなければならない。その他いろんな雑用がある。もし、これに洗濯までやらされたらおそらく私は三日ともたなかったと思う。 しかし、その精薄の少女は、冬になっても洗濯を続けてくれた。洗濯機などあるはずもない。すべて手洗いである。厚い氷の張った津軽の水の冷たさはいまさら説明するまでもないだろう。彼女の手はしもやけとアカギレで饅頭のようにふくれ上がり、しかも血だらけだった。

 私はこの少女に何かお礼をしたいと思った。しかし、アメ一つ、せんべい一枚ない生活なのだ。でも私が「ありがとう」というと、おそらく態度でわかるのであろう、顔を見上げてかすかに微笑してくれた。ほかの小さな子どもたちが、「おねえちゃん、ありがとう」というと、あ、笑ってくれたのかなと思うくらいかすかに表情を崩してくれた。それがその子にしてやれるただ一つのお礼であった。また、私は少しでもヒマがあると、彼女の手を引いて自分の腋の下に入れて暖めてやった。十分でも二十分でも、時間があればじっとそうしていた。夜は毎晩のように、その子の手を腋の下にはさんで寝た。私は今でも覚えているが、あまりの冷たさに自分の心臓が凍りつくようであった。しかし、それが私にできる精いっぱいのお礼だったのである。

 その後まもなく私はその孤児院を去った。何人かの後継者が現れてくれたからである。しかし、私がいなくなってちょうど一週間後に、その子は施設の門の前でクルマにはねられて、即死した。耳が不自由だったあの子は、クラクションの音に気づかなかったのであろう。だが、私はこの幸薄い一人の少女との交友を通じて、つくづく感じたことがある。それは神様はどんな人間にも、たった一つだけは、他人にない素晴らしい才能を与えてくださっているということである。

 その才能は勉強で伸びる人もいるし、器用さで伸びる人、勇気で伸びる人、やさしさで伸びる人、才能というものは、さまざまな伸び方をするのである。それが二十代で伸びる人もあれば、七十代で伸びる人もある。あの子は洗濯をすることで自分の持っているたった一つの才能を発揮した。あの子は親の名前も顔も知らないわずか十余年の短い生涯を終えた。あの子はたった一つの才能を自分のためにも生かし、六十七人の子どもたちにも与えて死んでいった。私は、いまでもあの子は、きょうも天国のどこかできっと皆の洗濯をしてやっているにちがいないと信じている。】

 これは15年ほど前に有名になった『気くばりのすすめ』という本からの抜粋です。この話のタイトルは「才能について」です。皆さんは著者の言うように、誰にでも才能はあると思いますか。私は個人的にはこの意見に賛成です。

 ただ、ここで著者が言う才能とは、飛び抜けた天才的な才能のことではなく、地味ではあるが誰にでもまねのできるわけではない行為であることに注意してください。この少女のすごいところは、洗濯の技術ではなく、その目立たないしかもつらい仕事を文句も言わずこつこつと続けたことでしょう。これは、そんなに簡単にまねできることではありません。実社会では、天才的な才能より、このような地味な才能の方が、実際人の役に立つことが多いようです。以前、この社会で組織のトップに立つ人(リーダー)のことについて話したときに、みんながトップになる必要もないと言いましたが、私たちの社会はこの少女のような地味な仕事をしているたくさんの人によって支えられているのです。なのに、その人たちはほとんど脚光を浴びず、上の人だけが目立つのは少々不公平ですよね。

 誰にでも「得て不得手」というものがあります。勉強にしても主要5教科のうち一つか二つは苦手ということもあるでしょう。でも、もし苦手にもかかわらず、「こつこつ」勉強するならば、その人にはこの少女と同じ種類の才能があるわけです。ただし、辛さにおいてはあの子の仕事とは比べものにはならないでしょうが。でも、ともかく「こつこつ」嫌なことを続けることができる才能を持っているならば、将来きっと何かの分野で活躍すると断言できます。ということで、現在の勉強もがんばってください。

 それともう一つ、私がこの本を読みながら勝手に考えたことですが、来世があるという教えは理にかなっているということです。誰でも死後の世界はあるのかという疑問を持っていますが、もし来世がなければ、あの少女の一生は本当に可哀想だとは思いませんか。たまたま鈴木さんがNHKのアナウンサーになって有名になり、またその本がベストセラーになったために、この少女のことが世間に知られるようになったのですが、でも名前がわかってないので、誰にも誉めてもらえない。確かにあの施設の子供たちと鈴木アナから感謝されたけど、すぐに交通事故でなくなったので、楽しい生活はこれぽっちも経験しなかったわけです。

 この少女のような素晴らしいことをしながら人知れず死んで行った人は数え切れないほどいるでしょう。それに対してこの社会では、散々悪事をして他人に迷惑をかけたり傷つけたりして、大威張りで暮らしている。水戸黄門がいれば、「格さん、助さん、十分にこらしめてやりなさい」と言われてきついお仕置をしてくれるはずですが、今の世の中にはそんな人はいないので、世間からも「偉い奴ちゃ、見上げた御方や。大した人物や」とか言われて、たまたま悪事がばれると「そんなことは記憶にございません」とか、「秘書がしたことです」とか、「母が好きなもんで。・・婆やが」(このコマ−シャルがなくなったのは残念)とか言って、司法の手を逃れる。そ、し、て、死んでしまったら、すべて水に流されるなら、この世はどうしようもないほど不公平ではありませんか。鈴木アナは、あの子が天国にいると言っていますが、これは単なるなぐさめの言葉でしょうか。また暇な時などに考えてみて下さい。


第12回に戻る   第14回に進む
目次に戻る