第16回 人間に霊魂はあるか

 ついに一学期も残すところ一週間になりました。授業では先週から人間には霊魂はあるか、てな話をしておりますが、この問題は人間とは何かを解く重要な問題なので、ここでも話させてください。アリストテレスは「人間は理性的な動物である」と定義しました。この定義から二つのことがわかる。一つは、人間は動物の一種ということ。だから、人間と動物では似ている点が多々有る。もう一つは、「理性的」という点で動物と異なっているということ。それでは、似ている点と異なる点ではどちらが大きいでしょうか。

 似ている点を強調する人は、人間と動物は本質的には変わらない、その違いはレベルの違いだとします。そしてこのレベルの違いは、結局脳味噌の発達の程度の違いだと考えるわけです。この人たちの中には、チンパンジ−といっしょに生活して人間の言葉を教えようと日夜努力している人もいます。この猿たちは、可哀想に日本の平均的中学生よりはずっと厳しい勉強をさせられているようで、「このな生活やめて、ジャングルに帰りたいよう」と言っているのではないかと思います。

 皆は動物を仕込んだことがありますか。動物を仕込むのは、こちらがさせようとする動作をしたら餌を与えて誉めてやり、しなければ叩いたりして叱ることによって、仕込みます。つまり動物は「こうすれば餌を貰える。こうすれば叩かれる」を反復練習によって覚えて、一定の行動をするようになる。つまり、飴と鞭によって、人間の思う通りの動きを動物にさせることができるわけです。ところで、人間を単に動物の高等なかたちとだけ考える人は、人間も同じように飴と鞭だけでこちらの思うように教育(むしろ調教と呼ぶほうがふさわしいが)できると考えます。アメリカの心理学者のスキナ−という人もその一人。「私のところにあなたも息子を渡しんさい。お好みのままの人間にしてあげよう」と言いましたが、だれものってこないので、自分の子供に自分の理論を当てはめて教育したところ、おかしな子供になってしまったとか。

 人間と動物の違いを強調するために、例えば、「人間は動物と違って道具を使うし、言葉を話す」と言えば、「道具を使う猿もいる」とか、「猿やイルカは互いに合図をし合う」と反論されます。この反論は正しいですが、でもよく考えると、人間の道具(例えば、このワ−プロ)と猿の使う道具(穴の中に入れて、そこにいる蟻を食べるために折った枝)を比べれば、同じ道具とはいっても質的にまったく違いますよね。また「ウウ、ガ−ガ−、ゴホゴホ」とか言う合図と人間の複雑な言葉と同じにしてもらっては困る。もし、人間の言葉が猿の鳴き声のようなものなら、国語や英語の授業で分からなんてことは絶対にないはずです。

 でも今日はもっと目立つ差を紹介したい。例えば、人間の物質的な生活に最低限度必要なものは衣食住です。この中で猿も持っているのは、食と住ですね。人間も猿も食事をする。しかし、その仕方はどうですか。猿は料理をしますか。猿は食器を使いますか。猿はテ−ブルクロスなどの装飾を気にしますか。不思議なのは、食器を使っても、テ−ブルクロスやマナ−に注意しても、別に食事が美味しくなるわけではないのに、人間はそのようなこと(つまり直接お腹に響かないこと)を気にすることです。

 住まいについても同じことが言える。猿が自分の住まい(木の上で木の枝を重ね合わせて寝床を作っている猿をテレビで見たことがありますが、一般の猿が巣を持つのかどうか知りませんが)に、壁紙を貼っているのを見たことがありますか。きれいな花を飾っている猿を見たことがありますか。それに対して、人間が住まいをより美しくしようとすることは、よく考えれば不思議なことではないでしょうか。というのは、住まいは雨露と冬の寒さをしのげれば、それで用を足すものでしょう。べつに部屋をきれいにしても、何の役にも立たないのではありませんか。

 テ−ブルクロスやインテリア(部屋の装飾)は人間だけがするもので、その裏には人間には美的なセンス(感覚)があることを意味します。この美的感覚は、脳味噌が発達した結果に過ぎないのでしょうか。美ということは、物質的な装置では感知できないと思います。

 もう一つの例。皆さんの中にも「僕は何々のファンや」と言う人がいますね。このファンの心理も不思議なものです。というのは、応援しているチ−ムが勝てばお金が入り、負ければお金を失う(賭け事みたいに)ならば、チ−ムの勝ち負けにこだわるのは理解できる。しかし本当のファンの心理は違います。私事で恐縮ですが、私は広島カ−プが勝っても負けても別に損も得もまったくしません。だのに、勝てば嬉しいし負ければ悔しい。今回のワ−ルドカップで、日本人のサポ−タ−にはわざわざ大金をはたいてフランスまで旅行して、また大金をはたいてゲ−ムを見た人がいるようですが、これも不思議でしょう。自分の家族が選手として出ているならわかります。が、確かに同じ国の人が出ているとは言え、まったくの赤の他人がプレ−しているのでしょう。

 また試合のときの「はらはらドキドキ」は一体何でしょうか。あれは脳味噌が極度に振動しているのでしょうか。脳が自分の体に危害が加えられると思って、ハラハラドキドキするならわかります。しかし、応援しているチ−ムが勝とうが負けようが、自分の体はまったく大丈夫なのです。

 これらのことも、人間が単に物質的なことだけで生きているのではないことの証明ではないでしょうか。つまり、人間というもの自体が物質のみでできているのではないことの証明ではないでしょうか。

 霊魂のことをギリシア語で「プシケ− (psyke)」と言います。心理学(psycology)というのは「魂の学問」と言う意味でした。だから、もし人間に霊魂がないと考えるならば、心理学なんて必要ない。人間も生物としてその体だけを調べれば、人間の不思議もすべて解明できるはずです。しかしそれはできない、少なくとも今までのところできていません。霊魂があるかないかはとても重要な問題なのです。時間があるとき、例えばお風呂に入っているときなど、「♪月が出た出た♭」を歌いながらでも、こういう問題について考えてみたらどうでしょうか。

 それではまた。


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