第18回 自分の正体が現れるとき

 中学生活最後の夏休みはいかが過ごされたでしょうか。世間では毒入りカレ−事件や大雨やテロ事件、広島の優勝戦線脱落などなど暗い出来事に絶えませんでしたが、皆さんの方は忙しいながらも楽しい休みであったのではないかと拝察したします。連日応援練習に気合いが入っているようですが、応援のような直接は何の役にも立たないことに熱中するのは人間が豊かと言うことなので、感心しています。直接的に人間生活に役に立つことというのは例えば食事で、消費支出の内で食費の占める割合(いわゆるエンゲル係数)は、高ければ高いほど生活が貧しいということだったでしょう。それは、食費とは生命を維持するために絶対に必要だけど、それ以外のことにお金を使うことができるのは、それだけ余裕があるということがだからです。同じように、例えば、中学生なら高校受験という極めて大切なことだけでなく、それとは直接関係のない活動をするのは、余裕の現れであるからです。しかし、もちろん食費を省いて娯楽にお金を費やすのは本末転倒であるように、中学生の本分である勉強をせずにその種の活動に明け暮れるのは、豊かな生活とは言えませんが。

 最近『人生の価値について考える』という本を読みました。皆さんも高校生になったらぜひ読んでほしい本です。その本は極限状態に置かれながらも、人間らしい勇気や優しさを失わずに生きた5人の人のことが書かれてあります。その一人として、第二次世界大戦中にアウシュビッツなどの収容所で2年8カ月過ごし奇跡的に助かった有名なユダヤ人の心理学者ヴィクトル・フランクル(今年なくなりました)の話が載っていました。ナチスの収容所で助かった人は、30人に一人だったそうです。この人が解放されてから自分の体験を綴った本、『夜と霧』はベストセラ−になり日本語にも翻訳されています(みすず書房)。

 収容所はまさにこの世の地獄。そこで一番つらいのは朝目が覚めることだそうです。ある晩隣で寝ていた人が大きな声でうなされて転げ回っていたので、フランクルはかわいそうに思って起こしてあげようとして手を伸ばしたのですが、思い止まった。というのは、「いかなる夢も、たとえもっとも恐ろしいものでさえ、収容所で我々を取り囲んでいる現実に比べればましであるということが強烈に私の意識にのぼったからである」と言っている。

 ついでながら言っておきますが、第二次世界大戦中にドイツの収容所にいたときソ連軍によって解放されたと思ったら、今度はソ連の収容所に入れられた超不幸な人がいたそうですが、その人の経験によるとソ連の収容所の方がナチスのそれよりずっとひどかったそうです。しかし最近の本によると北朝鮮の収容所はもっとひどいそうなのですが、どんなものか想像を絶します。自由な国に生きていることは幸せですね。

 ともかく、そのような毎日死の危険と背中合わせの生活では、多くの囚人がエゴイズムに走って、自分が助かることだけを考えていたのですが、その中でも少数とは言え、「他人のことを気遣うという態度」を取ることのできた人がいたと言っています(コルベ神父様はその代表でしょう)。そのような極限の状況に追い込まれたとき、人はもう自分を飾ることはせず、自分のありのままをそのまま出すわけです。次は氏の言葉です。 すべては、その人がどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。・・・。バイエルン地方のある収容所では、ナチスの親衛隊隊長である収容所所長が、ひそかに、自分のポケットから定期的にお金を費やして、近くにある薬局で自分の囚人のために薬を調達していたのです。他方、おなじ収容所で、収容所での最年長者、つまり自分自身囚人である人間が、囚人仲間をぞっとするような仕方で虐待していたのです。・・・苦痛に焼き尽くされて、本質的でないものはすべて溶け去りました。人間は溶け出されて、その正体を現わしました。

 「私の正体は何か」と自問することができるでしょう。生きるか死ぬかの極限状態ではなく、ちょっとした困難がふりかかったとき、私はどういう行動をするのか、またその時も周りの人を考えることができるのか、それで私の正体が暴露される。これで思い出したのが、1985年の日航機の墜落事故の後発見されたあるお父さんの手記です。その方は、飛行機が墜落し始めてもう助からないとわかり手帳に家族あての次の遺書を書きました。

 マリコ、つよし、ちよこ、どうか仲良くがんばってママを助けてください。パパは本当に残念だ。きっと助かるまい。・・ママ、こんな事になるとは残念だ、さようなら。子供たちのことをよろしく頼む。・・本当に今までは幸せな人生だったと感謝している。

 この走り書きを読んで感心するのは、「どうしてこんな目に会うんだ」と言ったような愚痴や不平がなく、むしろ最後には感謝の言葉が見えることです。

 この人やフランクルのような人間になりたいとは思いませんか。なぜ精道で勉強しているのでしょうか。なぜ精道で教えているのでしょうか。それは、そこで学ぶ生徒も教える教師もこのような立派な人間になるためです、とエスクリバ−神父が言っていました。もちろん望みの高校に入ることも大切なことですが、立派な高校に入って立派な大学に行き立派な会社に就職をしても、人間自体が立派でなければ、他人に迷惑をかけるばかりか本人も不幸なのです。それは毎日の新聞記事を読めばよくわかるでしょう。

 ということで、二学期もよろしく。月曜日には、「人は何のために生きるか」について話す予定です。このようなテ−マについては、中学生の間に考えておくもの将来のためと思います。もうあまり時間はありませんので、ふにゃっと垂れたほっぺたを引き締めて授業に参加してください。


第17回に戻る   第19回に進む
目次に戻る