第19回 権威とは何か

 毎日体育祭の準備お疲れ様です。特に応援の練習は大変でしょうね。けど、これは皆さんにとってとても貴重な体験だと思います。というのは、「人を動かす」というとても大切なことを経験できるからです。皆の中には小学校の先生になれる素質を秘めた人も少なくないようですね。

 体育祭では、各グル−プの団長がすべてを仕切るようですが、この仕事がうまく行くためには、団員が団長の命令に従わねばならない。でもなぜ団長が命令することに皆は従わないといけないのでしょうか。その団長の権威は、どこから来るのでしょうか。と言えば、「それはみんなで団長を決めたんやさかい、従うのは当たり前やろ」と言うでしょう。それは一理ある。でもそれでは、団長が団員の選挙ではなく、先生が任命したとしたらどうでしょう。「それは、学校では生徒が先生に従わんばごとなっとるやろが、そいけん先生の決めた団長に従わんばいけんたい」と答えるかも。

 それでは、なぜ学校では先生が命令する権威を持っているのでしょうか。それは学校は国の法律によって立てられているので、そこに入ってくる生徒は先生に従わねばならない、ってわけ。そうすると(ちょっとしつこいですが)、国がそんなことを決める権利、あるいは法律を決める権利はどこからくるのでしょうか。今日の問題は、これです。つまり権威とはどこから来るのか。

 公民をよく勉強している皆さんは簡単に次のように答えるかも。つまり、かの有名なルソ−(1712-1778)が『社会契約論』で言うように、「政府が命令する権威(主権という)を持っているのは、昔むかし人々が自分たちの生活を安定させるために、話し合って一人に政治をする権威を与えたからざんす」と。この考えによれば、統治する権威(主権)は国民にあると言うことです。そうなると、政府とは国民がよいと考えることなら命令することができるが、国民が悪いと考えることは命令することはできない、と言うことになる。これは一見正しそうですが、そう単純ではありません。

 キリスト教では、これと違って権威は神から来ると言います。キリストがロ−マ総督のピラトから裁判を受けているとき、ピラトは「お前を殺すも生かすも私次第だ」とギリシア語で言いましたが、キリストは「もし上から与えられなければ、あなたは私に対して何の権限ももっていはいない」と言われた。パウロも「神から出ない権威はない」(ロ−マ、13章 、1)と言って、時の皇帝(ネロ)のために祈るように勧めています。キリスト教によれば、この宇宙の秩序を定めた神は、同様に人間社会にも秩序を定めるために社会の長となる者に権威を与えられた、と考えるわけです。

 「もし、権威が神からきたとやったら、権威ある人どげんこつでも命令のできる絶対的な支配者になるんじゃなかとね」と言う人もあるでしょう。17世紀のヨ−ロッパでは、「王様の権威は神からきたとやっけん、王様はどげんこつでも命令できっと(これを王権神授説という)」と言った王様(有名なのはイギリスのジェ−ムズ1世、これは英国国教会の人です。カトリックではありません。念のため)が出ました。ついでながら、この人を継いだ王様のとき、彼も同じように好き勝手に振舞ったので、清教徒革命(1642年)が起こったのです。

 けれど、王は神から権威を与えられたので何でもできる、というのは大きな誤解。それは少し考えればわかることですが、権威が神から来ているからこそ、権威を持っている人は自分の好き勝手に権威を使うことはできないわけ。むしろ神の望み通りに権威を使わねばならない。だから団長が、政治家が、先生が、親が、神の掟(道徳)に反することを命令するとき、従う義務はないのです。

 民主主義の社会では、「国民が良いと思うこと」を知ることが必要になります。しかし、それはどうやったら知るとができるでしょうか。「国民が良いと思うこと」はおそらく国民の多数が望むことであって、それゆえ多数決で決まることが国民の意思となるでしょう。それでは、多数決で決まったことが必ずしも正しいことなのでしょうか。そうではないことは明らかでしょう。なぜなら、人間は間違うことがあるし、それ以上に自分の都合や好き嫌いを、正しいことに優先させることがあるからです。たとえば、ご存知のように、ナチスという政党は暴力で政権を獲得したのではありません(それに対して共産主義の国では、共産党は常に暴力と陰謀で政権をとった。共産党が選挙に勝って政権をとった例はありません)。国民の多数決でヒトラ−は政権を握り、その後安楽死(障害者や老人、病人など働けない者を殺す)を許可する法律を作っていったり、ユダヤ人絶滅を図ったりしたりしたわけです。多数決は確かによい方法ですが完全ではない。少数意見を大切にすることも求められるわけです。

 あるいは時には国は国民の気に入らないことを命令しなければならないときもある。たとえば、税金。だれも税金を納めたくないけれど、税金がなければ道路も港も図書館も野球場も保険所もできない。もし、国民に税金のアップをすべきかどうかを聞けば、絶対多数で反対となるでしょう。けど、この「国民がよいと思うことをする」という原則に従っていたら、何年か後には国は大変な事態になるわけです。

 権威に従わねばならないということは、逆に言うと権威を持っている人には、正しいことを命令する責任がある、ということです。これは団長やクラブのキャプテンや、親や教師や政治家や社長が部長が肝に銘じなければならない。「あなたは自分のしたい放題するために団長をしているわけではない」とはっきり言わねばなりません。

 それと権威を持つ人は、自分の部下について良く知る必要がある。たとえば、部下の得意ことと不得意なこと。部下のできることをさせて、できないことは別の人にまかせるとか。これが、前に言った実践知性の働き所です。

 プロ野球の選手で、監督が変わったり自分が別のチ−ムに行ったりして、急に活躍する人があります。これは、もちろん本人が絶えず努力していたこともあるでしょうが、同時に部下をよく知り、その長所を伸ばすことができる上司に巡り会えたということも関係しているのでしょう。


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