第26回 死後の世界はあるか

 ついに11月になりました。カトリック教会はこの月を死者の月としてなくなった人々のために祈り、同時に死について考えるように勧めています。世の中には「タブ−(大っぴらに話さないこと)」ということがありますが、宗教を抹殺しようとする近代社会では「死」もタブ−になりました。しかしこれは非常に大切なテ−マで、しかも誰でも本当は興味を抱いているテ−マなのです。上智大学でデ−ケン神父という人が「死の哲学」という授業をしていますが、学生の多くが年末の試験の答案に「今までは死を学ぶなどということは暗い考えだとばかり思っていましたが、生きていく上で実に大切だということが判りました」と感謝するそうです(『死とどう向き合うか』、NHK出版)。

 孔子は「死とはどのようなものでしょうか」と聞かれて、「まだ人生の途中で、生ということを満足にわかっていないものには、死は考えても理解できない」と言って答えなかったそうです。孔子にとっての最大の関心は「人がいかに生きるべきか」でしたので、このような答えが出てきたことはある程度理解できます。けど、生きることはよく旅に例えられますが、それなら死ぬことは目的地になりますよね。目的地がどこかを知らなければ、よい旅をすることはできないのと同じように、死が何かを考えなければよい生き方もわからないのではないでしょうか。

 とは言っても、死はそんなに明るい話題ではないことは確かです。毎日友達と死について話す人がいたら、ちょっと気味が悪いですよね。また、この受験の大切なときに死について考えて恐くなって夜中におねしょしたりして不眠症におちいり勉強ができなくなって、業務上過失致死かなんかで長崎地方裁判所に訴えられたりでもしたらいやですから言っておきますが、これはおばけの話しのように人を恐がらすためではまったくなく、逆にこのテ−マについて話すことで余計な恐れを取り除くことにあります。

 さて、死後の世界については、いろいろな意見があります。どうしてかと言うと、あの世はだれも見たことがないし、見ることができない代物だからです。ヨ−ロッパでは近代になって、見ることも触れることもできない問題に対しては、「それはわからへんから、考えんことにしよう」という考え(これは不可知論とか懐疑論と呼ばれる)が広がり、現在の日本でもこの考えの人は多い。しかし、以前に何度か言ったように、見えない問題についても人間は考えられるし、普段から無意識に考えている。では、どのように考えられるかを、これから何回かにわたってお話したい。

 話しの進め方ですが、以下のようにしたいと思います。つまり、まず死後の世界についてどんな意見があるかを見て、それぞれについて考えてみる。次にもしあるならば、それはどのような所かを考える。その後で、キリスト教はどのように教えているかを説明したい。というわけで、まず死後の世界があるかないかについて見てみましょう。

第一章;死後の世界はないという意見について。

 死ぬとは体の働きが止まることだと言えるでしょう。体の機能が止まると、体は腐敗していって最後にはなくなる。問題は人間はこの腐敗する体だけか、それとも霊魂を持つのかということです。そして、当然、霊魂がないという人は死後の世界なんかないと言います。だから唯物論者は死後を否定する。すでにヘレニズム時代エピキュロス(紀元前341〜270年)という人もそう考えていました。彼は「死は我々とは関係ないものや。せやかて、今生きてるときは死はないし、死んでしもたらわしがおらんようになってしまっとんやさかい」と言って弟子たちを勇気づけていました。

 皆さんはこのエピキュロスの考えについてどう思いますか。もしこれで満足なら、この先は読む必要はありません。でも、これで満足する人は少ないのです。人は普通死を恐れ、できれば考えないでおこう、とします。そのために今現在目の前にあることに集中しようとする。目の前にあることに集中することは大切ですが、同時に遠くにある目標もしっかり見つめておく必要があるのではないか、と思うのですが。

 もし、死後の世界がないから、人間の人生はこの世で終わりです。ということは、人間の幸福とは、この世でできるだけ楽しむということになりませんか。でも少し考えたら、どんなに楽しんでも結局終わりが来て無に帰するなら、それもむなしいことですね。また、もし人生がこの世だけなら、良心に従って善い行ないをしてもあまり意味がない、ということにはならないでしょうか。

 唯物論が18世紀に西洋の知識人の間に広がり始め、それ以後自然科学が驚くべき発展を遂げた20世紀の末期の今、世界の大部分の人は来世を信じないのでしょうか。いやその逆なのです。世間には科学が発達すれば、宇宙が自然(神の手を借りずに)に発生したこと、人の精神的な働きは結局脳味噌の働きであること、だから人間も自然の(神の介入なしの)進化の結果猿のような動物から生まれてきたことが証明できる。そうすれば人間の謎もすべて説明できる、と考えている人が結構います。『長崎の歌』(永井隆博士の伝記)という本に、博士が島根の山奥から長大の医学部に入学したとき、まさにそのように考えていたとあります。霊魂とか神とかはまったく非科学的なもので、科学の発達によっていずれ忘れ去れらてしまうものだ、と。しかし、ある日「家に帰れ」との電報を受け取り、急いで帰省します。家に帰るとお母さんが危篤でした。その時の模様を博士は次のように書いています。「私が枕元に駆けつけたときにはまだ息があって、じいっと私の顔を見つめたまま事切れた。その母の最後の目は私の思想をすっかちひっくり返してしまった。私を生み、私を育て、私を愛し続けた母が、別れにのぞんで無言で私を見つめたその目は、お母さんは死んでも霊魂は隆ちゃんおそばにいついつまでもついているよ、と確かに言った。霊魂を否定していた私がその目を見たとき、何の疑いもなく母の霊魂はある、その霊魂は肉体を離れ去るが、永遠に滅びないのだと直感した」(42ぺ−ジ)。

 人はなくなった人をお墓に埋葬する。そして、親しい人だったら、しばしばお墓に行って故人に祈るでしょう。それは、この永井博士が直感したことをおぼろげながら認めているからではないでしょうか。来世がないと言った人はいるけど、来世がないと証明した人はいまだいません。


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