第29回 「免罪符」のウソ

 期末試験はいかがでござったか。今日は、「あの世シリ−ズ」を一休みして、別の話をします。字数も普段より多いけど、我慢してください。大切なことなので。

 高校では、社会は日本史、世界史、地理、現代社会のうちから一つか二つを選ぶことになります。私は個人的に世界史を勧めます。その理由は二つある。一つは、中学では日本史、地理、公民はかなりのレベルまで学習するのですが、世界史は非常に不十分だからで、また高校で勉強しないとその後から勉強しようと思っても簡単ではないからです。もう一つの理由は、世界史の知識が国際化が進む現代社会において必要なことが多いと思われること。今から10年後、出張で例えばパリに行ったとしよう。商売相手の会社の人が町を案内して、「ここでパリコミュ−ンのときに市街戦が行なわれたのです」とか言われて、「パリコミュ−ンて、何ね。そいはフランス料理ね」なんて言ったら、相手は「こんな教養のない奴は信用できへん」とフランス語で考えて商談がパ−になるかもしれません。

 ところで、世界史の勉強をしたらすぐわかることですが、西洋の歴史にはキリスト教の影響がすごく大きく、教会の関係する事件が多い。そして、教科書には、カトリック教会に関して時々ひどい誤解が平気で書かれているのです。3年くらい前に、現在の日本の歴史の教科書が、明治以降何でもかんでも日本が悪いというような印象を与えると言って、『教科書の教えない歴史』という本が出てベストセラ−になったことを覚えていますか。これと似ていると思いますが、歴史の教科書にはカトリック教会は極めて批判的に書かれています。そこで、私も『教科書の教えない教会史』を書くことはできないにしても、いくらかの明らかな間違いは、教えておきたいのです。その第一の問題として、悪名高い「免罪符」。

 先日ある全国紙に次のような記事がありました。「免罪を求める信者は禁酒か禁煙を。・・ロ−マ法王は・・不必要な消費を慎むことでも免罪は得られるとして云々」。この記事によれば免罪は「贖宥」と同じなのですが、これが大きな誤りであることを説明します。

 皆さんはロシアの文豪ドストエフスキ−の『罪と罰』という本を知っていますか。「罪」と「罰」は似て非なるものです(似ているけど違うということを難しくいうとこうなる)。だから「罪が赦される」のと「罰が赦される」ことは別のことになりますよね。これを例を挙げて説明したい。

 私は小学生のころよく友達と野球をしました。野球に適した広い場所は少し遠くにあり、また普通中学生に占領されていたので、我々は普通アパ−トの間の空き地を使っていました。そうすると、よくボ−ルがアパ−トのベランダに飛び込むわけ。そして時々窓ガラスを割ってしまう。今でも覚えているのは、一度ある家の台所のガラスを割ったのですが、そのガラスの側には叔母さんが作った夕ご飯(魚のフライ)が置いてあり、ひどく怒られました。ともかく、いくら恐くても近所の人は顔なじみですから逃げても仕方がないし、逃げたらボ−ルを返してもらえないので、いやいや謝りに行くわけです。普通は小言を言われて釈放されるが、時々赦してくれないおっちゃんやおばちゃんがいて、「おまらじゃらちがあかん。親を呼んでこい」と言われる。そこで誰かのお母さんに来てもらって謝ってもらう訳です。

 でも、これで一件落着ではない。ガラスを割ったのですから、バラバラに散らばったガラスの破片を掃除して(掃除した記憶はないのですが)、窓ガラスの弁償をしないといけない。つまり、悪いことをしたら、二つのことをしないといけない。一つ目はその悪い行い(この場合は他人の家のガラスを割ったこと)、もう一つは与えた損害を弁償すること。

 これと同じことが罪の赦しにも起こるわけ。罪とは神様に侮辱を与えることです。たとえ、罪を犯しているとき、自分は神様を侮辱しているんだという意識がなくてもです。というのは、罪とは神様の掟を破ることですから。たとえば、家でお父さんが家族全員そろって夕食を食べる、みんなが揃うまで夕食は食べないという規則を決めたとしよう。それなのに、ある子供がいつも勝手に先に一人で食べたとすれば、この子が「僕は別にお父さんを憎んでいるわけじゃないよ」と言ったとしても、行いによってお父さんを侮辱していることになるでしょう。これと同じです。

 だから、罪を犯したら、まず神様に罪を赦してもらう必要がある。しかし、その後でその罪によって生じた損害を弁償する必要があるわけ。これを償いと言う。カトリックの教えでは罪は、完全な痛悔をするか、「赦しの秘跡」によってしか赦されない。だからいくら禁酒や禁煙をしても罪は赦されません。しかし「赦しの秘跡」でひとたび罪が赦されたら、償いはいろいろな方法ですることができる。たとえば、お祈りとか慈善事業とか。この世で償いをし残したまま死ぬと、人は煉獄というところで残っている償いをしないといけない。天国に行くには霊魂が完全に清められていないといけないから。しかし、人間は怠け者ですから、普通は自分から償いを一生懸命することはないですよね。そこで教会は、13世紀ごろから信者が進んで償いをするようにと、また、自分のためにもらった償いの赦しを煉獄の霊魂に譲るようにと、「免償」ということを積極的に進めたのです。それは、これこれのお祈りをしたら、これだけの償いに、これこれの善業をしたら、これだけの償いになると、教会が決めたわけ。もちろん、免償を受けるためには、前もって罪を赦しの秘跡によって赦されていなければならない。さて、皆さんの教科書には「ルタ−の抗議。免罪符の販売は、教会のために良い行いを積めば、罪が赦されるという考えによっていた云々」(104ペ−ジ)とあるでしょう。ここの間違いが分かりますか。それは罪の赦しと罰の赦しを混同していることです。免罪符(それを買えば罪が赦されるお札)なんて存在したことはなかった。この免罪符というのは、実は償いが赦される(または減らされる)ために、当時古くなっていたロ−マの聖ペトロ教会の改築のための寄付をすることでした。だから、免罪符ではなく、免償符なのです。このことはルタ−もちゃんと分かっていたのです。と説明しても、「ややこしか、どげんなっとるとかなんかわからんばい」と言われるでしょう。確かに罪と罰の区別は、ちとむつかしゅうござる。だから大新聞の記者も平気で間違っているわけ。また、私の知り合いで、かつて某予備校の世界史の人気先生で、今は京都の某私立大学の教授をしている人に、ある日「免罪符は本当は罪を赦すものではなく償いの赦しですから、本来は免償符と呼ぶべきなんですよ」と言うと、「それは知らなかった」と言っていましたから、皆さんが分からなくても仕方がない。けど、高校でそのように教えられたら、その先生に私を紹介してください。いくらでも説明してあげますから。

 残された時間を有効にお使いください。


第28回に戻る   第30回に進む
目次に戻る